J.S.ホールデン(1860~1930)はスコットランドの生理学者。本書は下の澤瀉『医学概論』に引用されていることから知った。小生に理解できる限りでいえば、本書は「生命」を物理現象に還元することを否定し、生命とは「神秘」(92頁)であり、また「生体の生命とは不断に自己自身を維持しまた増殖している不可分な整合的全体である」(126頁)として、生命自身の存在の固有法則性・統合性を説いて、物理学、生物学、心理学がそれぞれ異なる存在の領域を扱う学であると説いている。また学的認識は畢竟するところ「神」の認識であるとも説く(132頁)。バークレーを若干修正しつつ、「神は〔人間の〕意識的行為の中に示される最高価値のなかに含まれるものを感得することによって初めて我々に開示されるのである。」(147頁)、「我々が真理を探究する限り、神は能動的知覚者としての、また意志的行為者としての我々の知覚の中に存在し、また我々自身の中にも存在する。」(148頁)とする。
しかし、本文と並んで、或いはそれ以上に興味深いのは、巻末の田宮博氏による本書の解説とホールデンへの批判である。田宮氏によると、生物の内にみられる目的性には、①機械論的・偶然的な因果関係の帰結が目的性のごとく見える「終局」(Ziel)と、②生物自身の内在的・自発的な原理に基づく勝義の「目的」(Zweck)とが区別されねばならない。勿論、進化論で問題になるのは「終局」にすぎない。そして、「生命」とは「終局」と「目的」との「相補的対立」(158頁)を原理とするものであるという。
そして③「生物学」は生命現象を「終局」の観念を用いて、物理学的合法則性に従い探究する学問であり、結局、「合目的性」を「合終局性」に、生命現象を物理学に還元するものであるとする。これに対して「生命学」は生命現象を「目的」の観念を用いて、形而上学的な合目的性に従い探究する学問であるとする。そして田宮氏の立場は、生物学者は③「生物学」を営むものであり、決して④「生命学」を営んではならないというものである。そして最後に次のような驚くべき率直な結論を述べる。
「かくして生物学は生命現象を物理現象に、合目的性を合終局性に還元することをその目的とすることによって一つの自然科学として成立しうるのである。『生命』なる概念が合目的性と不可分なものであるとするならば、生物学は生命を対象としながら生命なる概念を破壊しようとしているものであると云える。生物学者は生命なる観念を抹殺しようと努力する限りにおいて自然科学者であり得るのである。」(166頁)
この議論は真に興味深い。大変明晰な議論だが、そうであるならば、物理学に還元された生物学ではもはや「生命」について論じられず、「生命」について論じるのは「生命学」という形而上学の課題であり、哲学者の仕事であることになる。ホールデン自身はむしろ生物学を観念論的な形而上学に還元しようとしたとも理解できるだろう。
また原書は確認していないが、格調高くこなれた翻訳でもあると思う。この時代の日本の学者のレベルの高さに改めて敬服してしまう。
2013年8月14日水曜日
2013年8月5日月曜日
澤瀉久敬『医学概論Ⅱ 生命について』創元社、1952年
著名なベルクソン研究者であり、大阪大学医学部「医学概論」担当教授であった著者による『医学概論』三部作の第二部である。
人間の身体的生命の本質を、科学的知見を踏まえつつ、「気」という能動的原理と「体」という受動的原理の「二元的一元性」において捉えるのみならず、「魂の不滅」についていわば終末論的に考察している。
「一つ一つの精神は地上において身体を通じてのみ自己を形成するものであり、身体を離れてはそれ以上自己を形成発展させることはできない。しかしそれはより優れた精神によって自己を高めることができると考えてはどうであろうか。それを許すとすれば、いかなる精神界が生まれるかは、いかなる精神を人類がこの世において生み出すかという点にかかっており、そこにこそ人間存在の目的と、精神的創造の喜びがあると考えてはどうだろうか。宇宙は何時かは永遠の死に帰るであろう。しかしその時こそ精神の国が物質の国を超えて独立するときであり、しかもどのような精神の国が誕生するかは一に懸って現在の生命の精神的自己創造にあると考えてはどうであろうか。」(284頁)
そのほか、「精神的環境とは、肉体と分離した精神があると考える場合、そのような魂の間に成り立つ一つの社会である。」(120頁)とする精神的環境についての議論、死者の追憶の意義(253頁)、ハンス・ドリューシュの生気論への評価(50頁)など、多くの非常に興味深い議論がみられる。
正直なところ、現在の日本にこれだけの哲学者が存在するだろうか…。
人間の身体的生命の本質を、科学的知見を踏まえつつ、「気」という能動的原理と「体」という受動的原理の「二元的一元性」において捉えるのみならず、「魂の不滅」についていわば終末論的に考察している。
「一つ一つの精神は地上において身体を通じてのみ自己を形成するものであり、身体を離れてはそれ以上自己を形成発展させることはできない。しかしそれはより優れた精神によって自己を高めることができると考えてはどうであろうか。それを許すとすれば、いかなる精神界が生まれるかは、いかなる精神を人類がこの世において生み出すかという点にかかっており、そこにこそ人間存在の目的と、精神的創造の喜びがあると考えてはどうだろうか。宇宙は何時かは永遠の死に帰るであろう。しかしその時こそ精神の国が物質の国を超えて独立するときであり、しかもどのような精神の国が誕生するかは一に懸って現在の生命の精神的自己創造にあると考えてはどうであろうか。」(284頁)
そのほか、「精神的環境とは、肉体と分離した精神があると考える場合、そのような魂の間に成り立つ一つの社会である。」(120頁)とする精神的環境についての議論、死者の追憶の意義(253頁)、ハンス・ドリューシュの生気論への評価(50頁)など、多くの非常に興味深い議論がみられる。
正直なところ、現在の日本にこれだけの哲学者が存在するだろうか…。
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