2013年8月14日水曜日

J.S.ホールデン(稲生・山縣訳)『生物学の哲学的基礎』弘文堂、1941年

 J.S.ホールデン(1860~1930)はスコットランドの生理学者。本書は下の澤瀉『医学概論』に引用されていることから知った。小生に理解できる限りでいえば、本書は「生命」を物理現象に還元することを否定し、生命とは「神秘」(92頁)であり、また「生体の生命とは不断に自己自身を維持しまた増殖している不可分な整合的全体である」(126頁)として、生命自身の存在の固有法則性・統合性を説いて、物理学、生物学、心理学がそれぞれ異なる存在の領域を扱う学であると説いている。また学的認識は畢竟するところ「神」の認識であるとも説く(132頁)。バークレーを若干修正しつつ、「神は〔人間の〕意識的行為の中に示される最高価値のなかに含まれるものを感得することによって初めて我々に開示されるのである。」(147頁)、「我々が真理を探究する限り、神は能動的知覚者としての、また意志的行為者としての我々の知覚の中に存在し、また我々自身の中にも存在する。」(148頁)とする。

 しかし、本文と並んで、或いはそれ以上に興味深いのは、巻末の田宮博氏による本書の解説とホールデンへの批判である。田宮氏によると、生物の内にみられる目的性には、①機械論的・偶然的な因果関係の帰結が目的性のごとく見える「終局」(Ziel)と、②生物自身の内在的・自発的な原理に基づく勝義の「目的」(Zweck)とが区別されねばならない。勿論、進化論で問題になるのは「終局」にすぎない。そして、「生命」とは「終局」と「目的」との「相補的対立」(158頁)を原理とするものであるという。

 そして③「生物学」は生命現象を「終局」の観念を用いて、物理学的合法則性に従い探究する学問であり、結局、「合目的性」を「合終局性」に、生命現象を物理学に還元するものであるとする。これに対して「生命学」は生命現象を「目的」の観念を用いて、形而上学的な合目的性に従い探究する学問であるとする。そして田宮氏の立場は、生物学者は③「生物学」を営むものであり、決して④「生命学」を営んではならないというものである。そして最後に次のような驚くべき率直な結論を述べる。

 「かくして生物学は生命現象を物理現象に、合目的性を合終局性に還元することをその目的とすることによって一つの自然科学として成立しうるのである。『生命』なる概念が合目的性と不可分なものであるとするならば、生物学は生命を対象としながら生命なる概念を破壊しようとしているものであると云える。生物学者は生命なる観念を抹殺しようと努力する限りにおいて自然科学者であり得るのである。」(166頁)

 この議論は真に興味深い。大変明晰な議論だが、そうであるならば、物理学に還元された生物学ではもはや「生命」について論じられず、「生命」について論じるのは「生命学」という形而上学の課題であり、哲学者の仕事であることになる。ホールデン自身はむしろ生物学を観念論的な形而上学に還元しようとしたとも理解できるだろう。

 また原書は確認していないが、格調高くこなれた翻訳でもあると思う。この時代の日本の学者のレベルの高さに改めて敬服してしまう。

2013年8月5日月曜日

澤瀉久敬『医学概論Ⅱ 生命について』創元社、1952年

 著名なベルクソン研究者であり、大阪大学医学部「医学概論」担当教授であった著者による『医学概論』三部作の第二部である。
 
  人間の身体的生命の本質を、科学的知見を踏まえつつ、「気」という能動的原理と「体」という受動的原理の「二元的一元性」において捉えるのみならず、「魂の不滅」についていわば終末論的に考察している。

 「一つ一つの精神は地上において身体を通じてのみ自己を形成するものであり、身体を離れてはそれ以上自己を形成発展させることはできない。しかしそれはより優れた精神によって自己を高めることができると考えてはどうであろうか。それを許すとすれば、いかなる精神界が生まれるかは、いかなる精神を人類がこの世において生み出すかという点にかかっており、そこにこそ人間存在の目的と、精神的創造の喜びがあると考えてはどうだろうか。宇宙は何時かは永遠の死に帰るであろう。しかしその時こそ精神の国が物質の国を超えて独立するときであり、しかもどのような精神の国が誕生するかは一に懸って現在の生命の精神的自己創造にあると考えてはどうであろうか。」(284頁)

 
  そのほか、「精神的環境とは、肉体と分離した精神があると考える場合、そのような魂の間に成り立つ一つの社会である。」(120頁)とする精神的環境についての議論、死者の追憶の意義(253頁)、ハンス・ドリューシュの生気論への評価(50頁)など、多くの非常に興味深い議論がみられる。

  正直なところ、現在の日本にこれだけの哲学者が存在するだろうか…。

2013年5月28日火曜日

A.G.Sertillanges,O.P.(trenslated by J.V.Schall),The Intellecutual Life Its Spirit,Conditions,Methods,The Catholic University of America Press,1998.

  ドミニコ会士セルティヤンジュ(1863~1948)の著名な著作(渡辺昇一氏の『知的生活の方法』にも言及がある)。大変な名著の一つであろう。キリスト教文化・信仰が背景になっているので、そうした背景を持たない人にはややわかりづらい点もあろうが、研究者として生きてゆく精神的支えとなる本である。

    研究生活一般に関するアドバイス(たとえば他人からの厳しい批判をどう受け止めるべきかとか)のみならず、そもそも研究生活というものの意味をキリスト教的な生き方の内に位置付けている点が素晴らしいと思う。前者に関しては「真のインテリとは忍耐する者のことである」(p.226)と説くあたり、襟を正させられるものがある。後者に関して、この本は、あくまでプロの研究者としての意識を持つことを厳しく説きながらも、しかしたとい目立った社会的成功のない人生であっても、神と信仰の内にかかわることを全うするならば、人生の究極目的は満たされたのであり、成功した人生であると説いてもいるあたりには慰められるものがある。

 さらに、「第一原理」を拒む今日の諸学がその根源において総崩れの状態に陥りつつあり、これを克服するためには、諸学の学者も、学の究極の統一原理を与える神学をある程度学ばねばならない(具体的に1週4~6時間を4~6年間学ぶことを勧めている!)ことを説いているあたりは慧眼であろう(p.109)。

 またトマス・アクィナスの『兄弟ヨハネスへの学習法に関する訓戒の手紙』を深く解説している個所もあり、興味深い。

2013年3月2日土曜日

ファーガス・カー(前川登/福田誠二監訳)『二十世紀のカトリック神学 新スコラ主義から婚姻神秘主義へ』教文館、2011年

 本書はM.D.シュニュ、I.コンガール、スキレベークス、ド・リュバック、ラーナー、ロナーガン、バルタザール、H.キュンク、ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世)、ラッツィンガー(ベネディクト16世)と、第二バチカン公会議に直接・間接に影響を及ぼしたとされる、いわゆる「新神学」周辺の著者を扱っている。

 訳文はやや読みにくい箇所もあるように思うが、それぞれの著者の特徴的議論について簡潔に知ることのできる本書は非常に貴重であるように思う。
 
 
 全体として、公会議前のトマス主義に基づく「新スコラ学」の、非歴史的・形而学的神学から、公会議後の歴史的・聖書的神学へとカトリック神学の方向転換がなされたという思想史観に基づいて論述がなされている。
 
 私は本書の論述を総括的に論評することは出来ないが、ただ一つ違和感を感じるのは、著者が批判的に論じる公会議前の「新スコラ学」神学が何であるのかという点である。具体的にはガリグ=ラグランジュが槍玉に挙げられて常に批判されているが(ドミニコ会士である著者の近親憎悪?なのであろうか)、「新スコラ学」内部の多様性についてはどう考えるべきだろうか。マリタン、ジルソン、メスナーといった「トミスト」の哲学者や倫理学者も十把ひとからげに「新スコラ学」という《過去の遺物》に含めるという訳ではなさそうだが、どうも、第二バチカン公会議関係の論述には、旧世代をひとくくりにしたり、今では50年前になる公会議での《解放》体験で立ち止まってしまう傾向があるようにも、私の世代には感じられる(ただし本書は公会議後の流れもある程度述べている)。

  いずれにせよ、これらの著者について、また「新スコラ学」についてもまだ研究途上にあるゆえ、これ以上コメントは差し控えたいし、簡潔な見取り図を与えてくれる本書には感謝したい。

2013年2月21日木曜日

フランク・リースナー(清野智明監修・生田幸子訳)『私は東ドイツに生まれた 壁の向こうの日常生活』東洋書店、2012年

 旧東ドイツ(DDR)出身で、NHKテレビのドイツ語講座出演でも知られるらしい著者により、わかりやすく旧東ドイツの社会・文化・経済についての紹介がなされている。全体におもしろいが、訳文もきわめて明快で読みやすい。

 訳者も述べているように、現在の雇用不安の蔓延した日本社会にあると、雇用と教育の機会が保障され、社会保障の充実した旧東ドイツは「うらやましい」社会であるようにも本書からは読める。

 旧東ドイツでもキリスト教は国家の監視を受けつつも、それなりに存在していた様が伺われる。「初聖体」についての記述が興味深い。

 しかし一番目を引いたのは、次のくだりである。

 「東ドイツに売春宿はなかった。そんなものが存在していたら、女性に対する侮辱にあたっただろう。全ての女性が仕事を見つけられるような社会だったのだ。国家は工場の中に女性を必要としていた。生計のためにわが身を売る必要などはなかったのだ。東ドイツにおいて売春行為は、資本主義社会特有の現象であるとみなされていた。春をひさがねばならぬほど女性を追い詰める社会というわけである。一方、我らが社会主義国家では、各々が性別に関わらず能力を伸ばしてゆける。そんな対比が必ず付け加えられた。」(229頁)。

 思わず考えさせられてしまう。旧東ドイツには特殊な人々を対象とする「ハニートラップ」として売春的行為はあったが、一般的な売春営業はなかったという。

 本書を読む限り、旧東ドイツでは若年者が結婚・育児をしやすい社会保障制度が現在の日本などよりも充実していたようである。子ども時代から大人に至るまで、さまざまのコミュニティ的活動が組織されていたこともあり、旧東ドイツでは性に関して売春という仕方に結実するようなひずみは少なかったように本書では読める(同時にFKK=裸体文化や同性愛の問題も本書では触れられている)。

2013年1月13日日曜日

ハンス・ヨナス(加藤尚武監訳)『責任という原理』東信堂、2000年

 かつて十数年前、Suhrkamp社から出ているドイツ語版で読書していたが、ヨナスのドイツ語の晦渋さは私の独語力ではすらすら理解できるレベルでもなく、その後打擲していたが、平明な日本語訳が2000年に出たものの、不思議と長らく読まずに来てしまった。今回読了して、この本が全体としてエルンスト・ブロッホの、科学技術の力によるマルクス主義的ユートピア論への批判でもあるらしいと理解した。

 「ベーコン以降、プロメテウスの流れを汲む多幸症の幾世紀期が過ぎた。マルクス主義も、その多幸症を源としている。今日では、責任の倫理が、駆け足で走る〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけなければならない。そうしないと、遠からず自然が、驚くほどもっと強烈な自然流のやり方で、〔科学技術を〕制御することだろう。その限り、〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけることは、賢明な用心であるのみならず、我々の子孫への最低限の礼儀である。」(205頁。一部訳語・訳文を変更)

 そしてここでいう「責任の倫理」とは、人間種というものの存在のために必要な「自らの前提条件を維持する責任」(204頁)なのである。

 たしかに福島原発事故に鑑みても、ヨナスの予言的警告の正しさは肯うことができよう。しかし、人間の科学技術の利用に摂理的に反発するはずの「自然」自体を、今日、科学技術の力により改変しようとしていることも確かであろう。「自然」は、それ自体で、人間の技術的介入に抗うだけの力を常に失わないものなのであろうか。

 人間という自然の改変は、今日、生命技術において生じているし、それがもはや「グロテスク」であるという感受性を人間から失わせつつある。ヨナスはこの本の結論部分で人間の「似姿」性を保持すべきことを主張しているようだが(388頁)、それは結局、人間の「本性」についての規定を最終的には神学的次元に求めざるを得ないということではなかろうか。

2013年1月5日土曜日

尹載善『韓国の軍隊 徴兵制は社会に何をもたらしているか』中公新書、2004年

 いろいろの意味で多くを考えさえられた一冊である。まず、日本と韓国の第二次大戦後の歩みの違い。韓国の軍事独裁政権や徴兵制に伴う軍事文化を無視しては韓国の現代史を理解できないのであろう。しかし私が特に興味を持ったのは、韓国軍内での宗教活動についての論述である。

「日曜日の午前、すべての兵士に宗教活動の時間が与えられる。よりよい軍隊生活のために、一人一宗教を持つことになっている。大部分の兵士は、日曜日の午前には宗教活動に参加する。つらくて疲れる軍隊生活のなかで、より安定した生活ができるよう支えるのが宗教活動である。宗教はもちろん自由で、プロテスタント、カトリック、仏教等、自分の望む宗教活動ができるようになっている。」(177頁、下線は引用者による)とある。

私は実は大学院時代、著者(尹先生)と同じ研究室に属していたが、ここまで詳しく韓国軍や著者の事情について伺いそびれていた。神学校も卒業し、今は牧師としても活躍される著者によると、韓国で今や国民の3割以上がキリスト信者になっている背景には、韓国の徴兵制に伴う「軍事文化」への人々の嫌悪があると伺った。

鈴木崇臣『韓国はなぜキリスト教国になったか』春秋社、2012年

 聖隷クリストファー大学教授・牧師である著書による。韓国はいまや総人口の37.5%がキリスト教徒であるという。その理由を本書は探っている。全体として、韓国のキリスト教会の現状についての論述は非常に興味深い。本書から知る限り、夜明け前の「早天祈祷会」への参加など、韓国のキリスト信者が個人としても集団としても非常によく祈る人たちであるという点に、韓国でのキリスト教浸透の理由の根本がありそうに感じられた。

 私は大学院時代、現在は大学教授に加えて牧師もお勤めになっている元韓国軍将校であった韓国人留学生の方に伺ったことがあるが(次の記事参照)、徴兵制のある韓国内の「軍事文化」への嫌悪がキリスト教普及の一つの理由になってもいるそうである。