2014年2月8日土曜日

稲垣良典『平和の哲学』第三文明社レグルス文庫、1973年

 かつて評論家の山本七平氏は「平和については平和語で語らねばならない」と説いていたが、本書はさらに深く、平和をもたらす《平和の人》の条件を、「徳としての正義」の観点から考察している。

 すなわち、著者によると、平和は平和を叫んでデモンストレーション等を行ういわゆる平和運動により直ちにもたらされるものではなく(平和を叫びつつも攻撃的な心を人間は持ちうるであろう)、人間の存在の仕方の《平和の人》への変容を待って初めて可能であるという。いわば、それは人間の魂のあり方の転換である。

 一般的には平和は正義の果実であるとされる。正義が実現することで平和が実現するというのである。しかし、「正義」の名の下に争いが生じていることも確かである。そこで著者は、正義についてより厳密に考えねばならないことを説く。

 すなわち、ただ自己中心的な視点から、自分(達)の《所有》を確保するために、「正義」を大義とすることがまさしく個人間や国家間の争いの元となるのであるが、そうした「自分(達)のもの」の所有中心の構えを転換して、人類全体の真の「共通善」という、普遍的な善を追及するよう、各人・各国家のあり方を転換せねばならない、そうした「共通善」を追及する「徳としての正義」を、人間が一つの「習慣」として身に着けることにより、初めて真の平和が実現すると著者は説く。

 つまり、人間が、様々の財貨=それぞれの個別的な善という果実を主観的な「権利」として我有しようという自己閉鎖的な構えを捨て、より多くの人に開かれ、様々の財貨=個別的な善という果実がそこに由来するはずの、より普遍的な善=共通善を追及するような開かれた人に各人がなること、これが《平和の人》の条件であると説かれていると言えようか。言い換えれば、各人は自分一個の利益のために職業・経済活動や社会活動を行うのではなく、人類全体の善益を見据えて、そこに貢献することを目指しつつ自己の活動をなすべきこと、またその見返りは、あくまで多くの人のそうした共通善への共同の貢献の結果、その果実として受け取るものであるという趣旨であろう。

 しかし、ここでいう、普遍的な共通善とは、同著者の『トマス・アクィナスの共通善思想』によると、国家共同体内での人間の社会的・経済的活動の果実としての「公共の福祉」から、「共同善としての宇宙秩序」まで、様々の層・段階があるのだが、最終的には「共通善としての神」という点に行き着くという。

本書で著者は、複数の人の意志が一つの合意に達している「和合」(concorida)と区別されて、「平和」(pax)であるためには、さらに各人が自分自身に敵対していないこと、自己分裂のないことが必要であると説いている。確かに自分が自分に敵対していては、およそ他者との間にも和合はないであろう。自分が自分と和解・和合するためには、著者の依拠するトマス・アクィナスによると「すべてを神へと結びつけ、心を尽くして神を愛し、こうして我々のあらゆる欲望が一つのものへの向かうようにすること」(本書92頁)が必要であるという。言い換えると、自分と和解すること、自己分裂の克服は、神においてなしうるということであろう。

また、真に部分的でない普遍的な共通善を求めるには、常に善の超越的・普遍的な側面を求めねばならず、それは最終的に「共通善としての神」を求めることにならざるを得ないという趣旨でもあろう(ここでいう「共通善としての神」とは、著者は述べていないが、様々の実定宗教の視角をもある意味で超越したものと言うことも出来るかもしれない)。

そこから、著者は平和のための教育のモデルとして、西洋修道制の父とされる、ヌルシアのベネディクト(AD480~547)の「戒律」を高く評価し、「戒律」で説かれるような共同体的な魂の訓育が、《平和の人》を育てる上で示唆するものがあることを述べている。

 平和をもたらす手段として、国民国家の主権を廃した主権的な「世界国家」の確立が説かれることもあるが、本書はそれ以前に、権力を行使したり、逆に権力に社会運動を通じて対抗しようとしたりする、人間の《あり方》を問題にしている点で優れた著作であるように思う。こうした深い洞察を持った著者は、残念ながら現代の日本では失われつつあるのではないだろうか。

2014年1月5日日曜日

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房(神谷美恵子コレクション)、2004年。


 本書はここ数年、授業で取り上げてきた。昭和の時代の精神科医、神谷美恵子(1914~79年)の代表作と言ってよい著作であろう。彼女がハンセン病療養施設・長島愛生園でハンセン病の人たちの「生きがい」について行ったアンケート調査が素材として用いられているが、(太田雄三氏などの研究によると)神谷美恵子自身の手記なども引用されているらしいし、それ以外のさまざまの人の文章が引用されている。心理学的な手法による、哲学的人間論風の著作と言えるのではないだろうか(その点がいわばこの著作がすこし捻じれている点かもしれない)。特にハンセン病療養者について言えば、さまざまの社会的・身体的な善を奪われた人の、いわば「裸の魂」における「生きがい」が取り上げられていると言えるだろう。

 本書は、第56章を転回点として、前半部分と後半部分に分けることも出来るように思うが、前半部分では、いわば順風満帆な人生の、一般的・世間的な生きがいが中心に論じられるのに対して、後半部分では、人生の苦境を経ての、新たな精神化された「生きがい」の再発見について論じているとみることが出来よう。特に、打ちひしがれた心が、「心の構造の組み換え」を経て、精神的な生きがいを再び見出すプロセスで生じうる「変革体験」についての記述が興味深い。神谷美恵子自身がかような「変革体験」をし、また本書中に、自らの手記から引用してその体験を記述しているようだ。

 神谷美恵子は、若い時分に三谷隆正や新渡戸稲造や叔父の金沢常雄らを通じて、キリスト教の強い影響を受けたと言われているが、本書が全体として扱っているテーマは、実は、人間のこの世での「死と再生(復活)」であるように思う。現世での「死と復活」についての論述は、キリスト教の説く、終末論的な「死と復活」を理解するうえで、示唆するところもあるのかもしれない。