2013年1月13日日曜日

ハンス・ヨナス(加藤尚武監訳)『責任という原理』東信堂、2000年

 かつて十数年前、Suhrkamp社から出ているドイツ語版で読書していたが、ヨナスのドイツ語の晦渋さは私の独語力ではすらすら理解できるレベルでもなく、その後打擲していたが、平明な日本語訳が2000年に出たものの、不思議と長らく読まずに来てしまった。今回読了して、この本が全体としてエルンスト・ブロッホの、科学技術の力によるマルクス主義的ユートピア論への批判でもあるらしいと理解した。

 「ベーコン以降、プロメテウスの流れを汲む多幸症の幾世紀期が過ぎた。マルクス主義も、その多幸症を源としている。今日では、責任の倫理が、駆け足で走る〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけなければならない。そうしないと、遠からず自然が、驚くほどもっと強烈な自然流のやり方で、〔科学技術を〕制御することだろう。その限り、〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけることは、賢明な用心であるのみならず、我々の子孫への最低限の礼儀である。」(205頁。一部訳語・訳文を変更)

 そしてここでいう「責任の倫理」とは、人間種というものの存在のために必要な「自らの前提条件を維持する責任」(204頁)なのである。

 たしかに福島原発事故に鑑みても、ヨナスの予言的警告の正しさは肯うことができよう。しかし、人間の科学技術の利用に摂理的に反発するはずの「自然」自体を、今日、科学技術の力により改変しようとしていることも確かであろう。「自然」は、それ自体で、人間の技術的介入に抗うだけの力を常に失わないものなのであろうか。

 人間という自然の改変は、今日、生命技術において生じているし、それがもはや「グロテスク」であるという感受性を人間から失わせつつある。ヨナスはこの本の結論部分で人間の「似姿」性を保持すべきことを主張しているようだが(388頁)、それは結局、人間の「本性」についての規定を最終的には神学的次元に求めざるを得ないということではなかろうか。

2013年1月5日土曜日

尹載善『韓国の軍隊 徴兵制は社会に何をもたらしているか』中公新書、2004年

 いろいろの意味で多くを考えさえられた一冊である。まず、日本と韓国の第二次大戦後の歩みの違い。韓国の軍事独裁政権や徴兵制に伴う軍事文化を無視しては韓国の現代史を理解できないのであろう。しかし私が特に興味を持ったのは、韓国軍内での宗教活動についての論述である。

「日曜日の午前、すべての兵士に宗教活動の時間が与えられる。よりよい軍隊生活のために、一人一宗教を持つことになっている。大部分の兵士は、日曜日の午前には宗教活動に参加する。つらくて疲れる軍隊生活のなかで、より安定した生活ができるよう支えるのが宗教活動である。宗教はもちろん自由で、プロテスタント、カトリック、仏教等、自分の望む宗教活動ができるようになっている。」(177頁、下線は引用者による)とある。

私は実は大学院時代、著者(尹先生)と同じ研究室に属していたが、ここまで詳しく韓国軍や著者の事情について伺いそびれていた。神学校も卒業し、今は牧師としても活躍される著者によると、韓国で今や国民の3割以上がキリスト信者になっている背景には、韓国の徴兵制に伴う「軍事文化」への人々の嫌悪があると伺った。

鈴木崇臣『韓国はなぜキリスト教国になったか』春秋社、2012年

 聖隷クリストファー大学教授・牧師である著書による。韓国はいまや総人口の37.5%がキリスト教徒であるという。その理由を本書は探っている。全体として、韓国のキリスト教会の現状についての論述は非常に興味深い。本書から知る限り、夜明け前の「早天祈祷会」への参加など、韓国のキリスト信者が個人としても集団としても非常によく祈る人たちであるという点に、韓国でのキリスト教浸透の理由の根本がありそうに感じられた。

 私は大学院時代、現在は大学教授に加えて牧師もお勤めになっている元韓国軍将校であった韓国人留学生の方に伺ったことがあるが(次の記事参照)、徴兵制のある韓国内の「軍事文化」への嫌悪がキリスト教普及の一つの理由になってもいるそうである。