2015年1月21日水曜日

矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』集英社、インターナショナル、2014年

 「『戦後日本』が今後、終焉へと向かうなかで、『あたえられた民主主義』ではなく(結局そんなものはどこにも存在しませんでした)、本当の民主主義を自分たちの手で勝ちとってゆくプロセスが、必ずどこかで始まります。具体的には、新しい憲法を制定して、市民の人権が守られるようなまともな法治国家をいちからつくってゆくというプロセスです。そう考えると、とてもやりがいのある時代に生まれたち言えるのではないでしょうか。」(同書244~245頁)。

 この本は、すでに話題になっているようだが、戦後日本の体制について適切な要約をしていると言えるだろう。新憲法制定により、真の立憲主義を日本にもたらそうという趣旨には誠に共感する。問題は、①どのような内容の新憲法を、②どのように作るかという点だが、①内容に関しては「国連中心主義の」「国際法の原則」(273頁)に従うというにとどまっている。確かに、世界人権宣言や、国際人権規約は、新日本国憲法を策定する上で、無視できないだろうが、さらに、法哲学的な考察が必要であるのは言うまでもないだろう。自然法論の立場からの拙論は、不十分ながら「新しい憲法の話」(http://2raimund-akihiro-ikawa.blogspot.jp/2014_01_01_archive.html)に述べた。

 ②新日本国憲法を、「いかに」起草するかはより難しい問題だろう。まず、憲法起草会議に先立つ実質的な条文起草のための委員会の人選を誰がどう決めるのか。日本の各社会勢力が、ここぞとばかりに影響力をふるうために自らの代表を送り込もうとするだろう。また、それに伴い、マスコミの影響下にある「国民世論」がどう醸成されて行くのか、難しい問題だろう。マスコミを動員できる社会勢力が、世論操作の上で最強の力を用いるのは確かであろう。


 難題山積だが、憲法を日本国民自身が立法しなければ、近代的な立憲主義がないのは確かである。近代立憲主義は、国民が、自分たちが立てたルールに自ら服するという自律を原理としているのであるから。しかし、問題は、そうした近代的自律を前提にしない、国民自身の外に「立法者」をもつような立憲主義の評価であろう。この点については私もさらに熟考してみたいが、「立法者」が(モーセのごとく民族を代表して神から律法を授かるのではなく)人間ないしその集団である場合、被治者は「立法者」に隷従することになるのは確かだろう。

2014年2月8日土曜日

稲垣良典『平和の哲学』第三文明社レグルス文庫、1973年

 かつて評論家の山本七平氏は「平和については平和語で語らねばならない」と説いていたが、本書はさらに深く、平和をもたらす《平和の人》の条件を、「徳としての正義」の観点から考察している。

 すなわち、著者によると、平和は平和を叫んでデモンストレーション等を行ういわゆる平和運動により直ちにもたらされるものではなく(平和を叫びつつも攻撃的な心を人間は持ちうるであろう)、人間の存在の仕方の《平和の人》への変容を待って初めて可能であるという。いわば、それは人間の魂のあり方の転換である。

 一般的には平和は正義の果実であるとされる。正義が実現することで平和が実現するというのである。しかし、「正義」の名の下に争いが生じていることも確かである。そこで著者は、正義についてより厳密に考えねばならないことを説く。

 すなわち、ただ自己中心的な視点から、自分(達)の《所有》を確保するために、「正義」を大義とすることがまさしく個人間や国家間の争いの元となるのであるが、そうした「自分(達)のもの」の所有中心の構えを転換して、人類全体の真の「共通善」という、普遍的な善を追及するよう、各人・各国家のあり方を転換せねばならない、そうした「共通善」を追及する「徳としての正義」を、人間が一つの「習慣」として身に着けることにより、初めて真の平和が実現すると著者は説く。

 つまり、人間が、様々の財貨=それぞれの個別的な善という果実を主観的な「権利」として我有しようという自己閉鎖的な構えを捨て、より多くの人に開かれ、様々の財貨=個別的な善という果実がそこに由来するはずの、より普遍的な善=共通善を追及するような開かれた人に各人がなること、これが《平和の人》の条件であると説かれていると言えようか。言い換えれば、各人は自分一個の利益のために職業・経済活動や社会活動を行うのではなく、人類全体の善益を見据えて、そこに貢献することを目指しつつ自己の活動をなすべきこと、またその見返りは、あくまで多くの人のそうした共通善への共同の貢献の結果、その果実として受け取るものであるという趣旨であろう。

 しかし、ここでいう、普遍的な共通善とは、同著者の『トマス・アクィナスの共通善思想』によると、国家共同体内での人間の社会的・経済的活動の果実としての「公共の福祉」から、「共同善としての宇宙秩序」まで、様々の層・段階があるのだが、最終的には「共通善としての神」という点に行き着くという。

本書で著者は、複数の人の意志が一つの合意に達している「和合」(concorida)と区別されて、「平和」(pax)であるためには、さらに各人が自分自身に敵対していないこと、自己分裂のないことが必要であると説いている。確かに自分が自分に敵対していては、およそ他者との間にも和合はないであろう。自分が自分と和解・和合するためには、著者の依拠するトマス・アクィナスによると「すべてを神へと結びつけ、心を尽くして神を愛し、こうして我々のあらゆる欲望が一つのものへの向かうようにすること」(本書92頁)が必要であるという。言い換えると、自分と和解すること、自己分裂の克服は、神においてなしうるということであろう。

また、真に部分的でない普遍的な共通善を求めるには、常に善の超越的・普遍的な側面を求めねばならず、それは最終的に「共通善としての神」を求めることにならざるを得ないという趣旨でもあろう(ここでいう「共通善としての神」とは、著者は述べていないが、様々の実定宗教の視角をもある意味で超越したものと言うことも出来るかもしれない)。

そこから、著者は平和のための教育のモデルとして、西洋修道制の父とされる、ヌルシアのベネディクト(AD480~547)の「戒律」を高く評価し、「戒律」で説かれるような共同体的な魂の訓育が、《平和の人》を育てる上で示唆するものがあることを述べている。

 平和をもたらす手段として、国民国家の主権を廃した主権的な「世界国家」の確立が説かれることもあるが、本書はそれ以前に、権力を行使したり、逆に権力に社会運動を通じて対抗しようとしたりする、人間の《あり方》を問題にしている点で優れた著作であるように思う。こうした深い洞察を持った著者は、残念ながら現代の日本では失われつつあるのではないだろうか。

2014年1月5日日曜日

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房(神谷美恵子コレクション)、2004年。


 本書はここ数年、授業で取り上げてきた。昭和の時代の精神科医、神谷美恵子(1914~79年)の代表作と言ってよい著作であろう。彼女がハンセン病療養施設・長島愛生園でハンセン病の人たちの「生きがい」について行ったアンケート調査が素材として用いられているが、(太田雄三氏などの研究によると)神谷美恵子自身の手記なども引用されているらしいし、それ以外のさまざまの人の文章が引用されている。心理学的な手法による、哲学的人間論風の著作と言えるのではないだろうか(その点がいわばこの著作がすこし捻じれている点かもしれない)。特にハンセン病療養者について言えば、さまざまの社会的・身体的な善を奪われた人の、いわば「裸の魂」における「生きがい」が取り上げられていると言えるだろう。

 本書は、第56章を転回点として、前半部分と後半部分に分けることも出来るように思うが、前半部分では、いわば順風満帆な人生の、一般的・世間的な生きがいが中心に論じられるのに対して、後半部分では、人生の苦境を経ての、新たな精神化された「生きがい」の再発見について論じているとみることが出来よう。特に、打ちひしがれた心が、「心の構造の組み換え」を経て、精神的な生きがいを再び見出すプロセスで生じうる「変革体験」についての記述が興味深い。神谷美恵子自身がかような「変革体験」をし、また本書中に、自らの手記から引用してその体験を記述しているようだ。

 神谷美恵子は、若い時分に三谷隆正や新渡戸稲造や叔父の金沢常雄らを通じて、キリスト教の強い影響を受けたと言われているが、本書が全体として扱っているテーマは、実は、人間のこの世での「死と再生(復活)」であるように思う。現世での「死と復活」についての論述は、キリスト教の説く、終末論的な「死と復活」を理解するうえで、示唆するところもあるのかもしれない。

2013年8月14日水曜日

J.S.ホールデン(稲生・山縣訳)『生物学の哲学的基礎』弘文堂、1941年

 J.S.ホールデン(1860~1930)はスコットランドの生理学者。本書は下の澤瀉『医学概論』に引用されていることから知った。小生に理解できる限りでいえば、本書は「生命」を物理現象に還元することを否定し、生命とは「神秘」(92頁)であり、また「生体の生命とは不断に自己自身を維持しまた増殖している不可分な整合的全体である」(126頁)として、生命自身の存在の固有法則性・統合性を説いて、物理学、生物学、心理学がそれぞれ異なる存在の領域を扱う学であると説いている。また学的認識は畢竟するところ「神」の認識であるとも説く(132頁)。バークレーを若干修正しつつ、「神は〔人間の〕意識的行為の中に示される最高価値のなかに含まれるものを感得することによって初めて我々に開示されるのである。」(147頁)、「我々が真理を探究する限り、神は能動的知覚者としての、また意志的行為者としての我々の知覚の中に存在し、また我々自身の中にも存在する。」(148頁)とする。

 しかし、本文と並んで、或いはそれ以上に興味深いのは、巻末の田宮博氏による本書の解説とホールデンへの批判である。田宮氏によると、生物の内にみられる目的性には、①機械論的・偶然的な因果関係の帰結が目的性のごとく見える「終局」(Ziel)と、②生物自身の内在的・自発的な原理に基づく勝義の「目的」(Zweck)とが区別されねばならない。勿論、進化論で問題になるのは「終局」にすぎない。そして、「生命」とは「終局」と「目的」との「相補的対立」(158頁)を原理とするものであるという。

 そして③「生物学」は生命現象を「終局」の観念を用いて、物理学的合法則性に従い探究する学問であり、結局、「合目的性」を「合終局性」に、生命現象を物理学に還元するものであるとする。これに対して「生命学」は生命現象を「目的」の観念を用いて、形而上学的な合目的性に従い探究する学問であるとする。そして田宮氏の立場は、生物学者は③「生物学」を営むものであり、決して④「生命学」を営んではならないというものである。そして最後に次のような驚くべき率直な結論を述べる。

 「かくして生物学は生命現象を物理現象に、合目的性を合終局性に還元することをその目的とすることによって一つの自然科学として成立しうるのである。『生命』なる概念が合目的性と不可分なものであるとするならば、生物学は生命を対象としながら生命なる概念を破壊しようとしているものであると云える。生物学者は生命なる観念を抹殺しようと努力する限りにおいて自然科学者であり得るのである。」(166頁)

 この議論は真に興味深い。大変明晰な議論だが、そうであるならば、物理学に還元された生物学ではもはや「生命」について論じられず、「生命」について論じるのは「生命学」という形而上学の課題であり、哲学者の仕事であることになる。ホールデン自身はむしろ生物学を観念論的な形而上学に還元しようとしたとも理解できるだろう。

 また原書は確認していないが、格調高くこなれた翻訳でもあると思う。この時代の日本の学者のレベルの高さに改めて敬服してしまう。

2013年8月5日月曜日

澤瀉久敬『医学概論Ⅱ 生命について』創元社、1952年

 著名なベルクソン研究者であり、大阪大学医学部「医学概論」担当教授であった著者による『医学概論』三部作の第二部である。
 
  人間の身体的生命の本質を、科学的知見を踏まえつつ、「気」という能動的原理と「体」という受動的原理の「二元的一元性」において捉えるのみならず、「魂の不滅」についていわば終末論的に考察している。

 「一つ一つの精神は地上において身体を通じてのみ自己を形成するものであり、身体を離れてはそれ以上自己を形成発展させることはできない。しかしそれはより優れた精神によって自己を高めることができると考えてはどうであろうか。それを許すとすれば、いかなる精神界が生まれるかは、いかなる精神を人類がこの世において生み出すかという点にかかっており、そこにこそ人間存在の目的と、精神的創造の喜びがあると考えてはどうだろうか。宇宙は何時かは永遠の死に帰るであろう。しかしその時こそ精神の国が物質の国を超えて独立するときであり、しかもどのような精神の国が誕生するかは一に懸って現在の生命の精神的自己創造にあると考えてはどうであろうか。」(284頁)

 
  そのほか、「精神的環境とは、肉体と分離した精神があると考える場合、そのような魂の間に成り立つ一つの社会である。」(120頁)とする精神的環境についての議論、死者の追憶の意義(253頁)、ハンス・ドリューシュの生気論への評価(50頁)など、多くの非常に興味深い議論がみられる。

  正直なところ、現在の日本にこれだけの哲学者が存在するだろうか…。

2013年5月28日火曜日

A.G.Sertillanges,O.P.(trenslated by J.V.Schall),The Intellecutual Life Its Spirit,Conditions,Methods,The Catholic University of America Press,1998.

  ドミニコ会士セルティヤンジュ(1863~1948)の著名な著作(渡辺昇一氏の『知的生活の方法』にも言及がある)。大変な名著の一つであろう。キリスト教文化・信仰が背景になっているので、そうした背景を持たない人にはややわかりづらい点もあろうが、研究者として生きてゆく精神的支えとなる本である。

    研究生活一般に関するアドバイス(たとえば他人からの厳しい批判をどう受け止めるべきかとか)のみならず、そもそも研究生活というものの意味をキリスト教的な生き方の内に位置付けている点が素晴らしいと思う。前者に関しては「真のインテリとは忍耐する者のことである」(p.226)と説くあたり、襟を正させられるものがある。後者に関して、この本は、あくまでプロの研究者としての意識を持つことを厳しく説きながらも、しかしたとい目立った社会的成功のない人生であっても、神と信仰の内にかかわることを全うするならば、人生の究極目的は満たされたのであり、成功した人生であると説いてもいるあたりには慰められるものがある。

 さらに、「第一原理」を拒む今日の諸学がその根源において総崩れの状態に陥りつつあり、これを克服するためには、諸学の学者も、学の究極の統一原理を与える神学をある程度学ばねばならない(具体的に1週4~6時間を4~6年間学ぶことを勧めている!)ことを説いているあたりは慧眼であろう(p.109)。

 またトマス・アクィナスの『兄弟ヨハネスへの学習法に関する訓戒の手紙』を深く解説している個所もあり、興味深い。

2013年3月2日土曜日

ファーガス・カー(前川登/福田誠二監訳)『二十世紀のカトリック神学 新スコラ主義から婚姻神秘主義へ』教文館、2011年

 本書はM.D.シュニュ、I.コンガール、スキレベークス、ド・リュバック、ラーナー、ロナーガン、バルタザール、H.キュンク、ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世)、ラッツィンガー(ベネディクト16世)と、第二バチカン公会議に直接・間接に影響を及ぼしたとされる、いわゆる「新神学」周辺の著者を扱っている。

 訳文はやや読みにくい箇所もあるように思うが、それぞれの著者の特徴的議論について簡潔に知ることのできる本書は非常に貴重であるように思う。
 
 
 全体として、公会議前のトマス主義に基づく「新スコラ学」の、非歴史的・形而学的神学から、公会議後の歴史的・聖書的神学へとカトリック神学の方向転換がなされたという思想史観に基づいて論述がなされている。
 
 私は本書の論述を総括的に論評することは出来ないが、ただ一つ違和感を感じるのは、著者が批判的に論じる公会議前の「新スコラ学」神学が何であるのかという点である。具体的にはガリグ=ラグランジュが槍玉に挙げられて常に批判されているが(ドミニコ会士である著者の近親憎悪?なのであろうか)、「新スコラ学」内部の多様性についてはどう考えるべきだろうか。マリタン、ジルソン、メスナーといった「トミスト」の哲学者や倫理学者も十把ひとからげに「新スコラ学」という《過去の遺物》に含めるという訳ではなさそうだが、どうも、第二バチカン公会議関係の論述には、旧世代をひとくくりにしたり、今では50年前になる公会議での《解放》体験で立ち止まってしまう傾向があるようにも、私の世代には感じられる(ただし本書は公会議後の流れもある程度述べている)。

  いずれにせよ、これらの著者について、また「新スコラ学」についてもまだ研究途上にあるゆえ、これ以上コメントは差し控えたいし、簡潔な見取り図を与えてくれる本書には感謝したい。