2012年8月30日木曜日
R.N.ベラーほか(中村訳)『善い社会 道徳的エコロジーの制度論』みすず書房、2000年
同じ著者らによる『心の習慣』の続編に位置づけられている著作。
全体として、自由主義的個人主義を批判する共同体主義の立場から、個人と社会とをつなぐ「制度」の意義を説いている。副題の「道徳的エコロジー」は本書中「社会的エコロジー」とも呼ばれているが、個人を取り巻く社会・文化的環境のことで、ヨハネ・パウロ2世の『百周年回勅』(1991年)では「ヒューマン・エコロジー」と呼ばれていたものである。本書も、『百周年回勅』にも沿った方向で(このことは著者らがアメリカ司教団の"Economic Justice for All"を高く評価していることからも伺われる)、J.ロックに由来する社会哲学としての自由主義的個人主義と経済哲学としての「新自由主義」が、アメリカと世界の「道徳的(社会的)エコロジー」に破壊的影響をもたらした事を指弾している。また自然環境問題とそうした「道徳的エコロジー」の問題の関連も示唆されている。
著者らはロック的な個人の自由と利益の最大化を目指す社会・経済哲学に代わり、地球規模での普遍的共同体、また逆にローカルな地域的共同体の共同善を志向する個人を育てるアメリカの聖書的伝統および共和主義的伝統を再興することを自由主義的個人主義のもたらした問題の解決策として提示している。
著者らの解決案への疑義として、共和主義はともかく、聖書的伝統を地球規模でいかに普遍化しうるかというものが当然予想されるであろう。私見では著者らの議論には、共和主義という政治的エートスとキリスト教という宗教的エートスの間に来ると思われる、普遍的な倫理的エートスの次元の議論が希薄であるようにも感じられる。
しかし全体としては、自由主義的個人主義のもたらした問題点を見据え、共同善へのまなざしを開く「社会倫理学」の必要性を鮮やかに示した著作と言えるだろう。また終章で論じている「注意」をめぐる議論がユニークである。ただし、共同善に向けての実践を「注意」という心理学的概念で語らざるを得なかった点が、この著作において本来の倫理的なものへのまなざしが希薄であることの表れでもあるかもしれない。「注意」ではなく、実践理性の「賢慮」を語るべきではなかったのか…。
また個人主義を超えて制度の意義を説くという点はすでにかつてジョルジュ・ルナールなどが説いていたことであった(ルナール(小林訳)『制度の哲学』栗田書店、1941)。
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