旧東ドイツ(DDR)出身で、NHKテレビのドイツ語講座出演でも知られるらしい著者により、わかりやすく旧東ドイツの社会・文化・経済についての紹介がなされている。全体におもしろいが、訳文もきわめて明快で読みやすい。
訳者も述べているように、現在の雇用不安の蔓延した日本社会にあると、雇用と教育の機会が保障され、社会保障の充実した旧東ドイツは「うらやましい」社会であるようにも本書からは読める。
旧東ドイツでもキリスト教は国家の監視を受けつつも、それなりに存在していた様が伺われる。「初聖体」についての記述が興味深い。
しかし一番目を引いたのは、次のくだりである。
「東ドイツに売春宿はなかった。そんなものが存在していたら、女性に対する侮辱にあたっただろう。全ての女性が仕事を見つけられるような社会だったのだ。国家は工場の中に女性を必要としていた。生計のためにわが身を売る必要などはなかったのだ。東ドイツにおいて売春行為は、資本主義社会特有の現象であるとみなされていた。春をひさがねばならぬほど女性を追い詰める社会というわけである。一方、我らが社会主義国家では、各々が性別に関わらず能力を伸ばしてゆける。そんな対比が必ず付け加えられた。」(229頁)。
思わず考えさせられてしまう。旧東ドイツには特殊な人々を対象とする「ハニートラップ」として売春的行為はあったが、一般的な売春営業はなかったという。
本書を読む限り、旧東ドイツでは若年者が結婚・育児をしやすい社会保障制度が現在の日本などよりも充実していたようである。子ども時代から大人に至るまで、さまざまのコミュニティ的活動が組織されていたこともあり、旧東ドイツでは性に関して売春という仕方に結実するようなひずみは少なかったように本書では読める(同時にFKK=裸体文化や同性愛の問題も本書では触れられている)。
2013年2月21日木曜日
2013年1月13日日曜日
ハンス・ヨナス(加藤尚武監訳)『責任という原理』東信堂、2000年
かつて十数年前、Suhrkamp社から出ているドイツ語版で読書していたが、ヨナスのドイツ語の晦渋さは私の独語力ではすらすら理解できるレベルでもなく、その後打擲していたが、平明な日本語訳が2000年に出たものの、不思議と長らく読まずに来てしまった。今回読了して、この本が全体としてエルンスト・ブロッホの、科学技術の力によるマルクス主義的ユートピア論への批判でもあるらしいと理解した。
「ベーコン以降、プロメテウスの流れを汲む多幸症の幾世紀期が過ぎた。マルクス主義も、その多幸症を源としている。今日では、責任の倫理が、駆け足で走る〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけなければならない。そうしないと、遠からず自然が、驚くほどもっと強烈な自然流のやり方で、〔科学技術を〕制御することだろう。その限り、〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけることは、賢明な用心であるのみならず、我々の子孫への最低限の礼儀である。」(205頁。一部訳語・訳文を変更)
そしてここでいう「責任の倫理」とは、人間種というものの存在のために必要な「自らの前提条件を維持する責任」(204頁)なのである。
たしかに福島原発事故に鑑みても、ヨナスの予言的警告の正しさは肯うことができよう。しかし、人間の科学技術の利用に摂理的に反発するはずの「自然」自体を、今日、科学技術の力により改変しようとしていることも確かであろう。「自然」は、それ自体で、人間の技術的介入に抗うだけの力を常に失わないものなのであろうか。
人間という自然の改変は、今日、生命技術において生じているし、それがもはや「グロテスク」であるという感受性を人間から失わせつつある。ヨナスはこの本の結論部分で人間の「似姿」性を保持すべきことを主張しているようだが(388頁)、それは結局、人間の「本性」についての規定を最終的には神学的次元に求めざるを得ないということではなかろうか。
「ベーコン以降、プロメテウスの流れを汲む多幸症の幾世紀期が過ぎた。マルクス主義も、その多幸症を源としている。今日では、責任の倫理が、駆け足で走る〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけなければならない。そうしないと、遠からず自然が、驚くほどもっと強烈な自然流のやり方で、〔科学技術を〕制御することだろう。その限り、〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけることは、賢明な用心であるのみならず、我々の子孫への最低限の礼儀である。」(205頁。一部訳語・訳文を変更)
そしてここでいう「責任の倫理」とは、人間種というものの存在のために必要な「自らの前提条件を維持する責任」(204頁)なのである。
たしかに福島原発事故に鑑みても、ヨナスの予言的警告の正しさは肯うことができよう。しかし、人間の科学技術の利用に摂理的に反発するはずの「自然」自体を、今日、科学技術の力により改変しようとしていることも確かであろう。「自然」は、それ自体で、人間の技術的介入に抗うだけの力を常に失わないものなのであろうか。
人間という自然の改変は、今日、生命技術において生じているし、それがもはや「グロテスク」であるという感受性を人間から失わせつつある。ヨナスはこの本の結論部分で人間の「似姿」性を保持すべきことを主張しているようだが(388頁)、それは結局、人間の「本性」についての規定を最終的には神学的次元に求めざるを得ないということではなかろうか。
2013年1月5日土曜日
尹載善『韓国の軍隊 徴兵制は社会に何をもたらしているか』中公新書、2004年
いろいろの意味で多くを考えさえられた一冊である。まず、日本と韓国の第二次大戦後の歩みの違い。韓国の軍事独裁政権や徴兵制に伴う軍事文化を無視しては韓国の現代史を理解できないのであろう。しかし私が特に興味を持ったのは、韓国軍内での宗教活動についての論述である。
「日曜日の午前、すべての兵士に宗教活動の時間が与えられる。よりよい軍隊生活のために、一人一宗教を持つことになっている。大部分の兵士は、日曜日の午前には宗教活動に参加する。つらくて疲れる軍隊生活のなかで、より安定した生活ができるよう支えるのが宗教活動である。宗教はもちろん自由で、プロテスタント、カトリック、仏教等、自分の望む宗教活動ができるようになっている。」(177頁、下線は引用者による)とある。
私は実は大学院時代、著者(尹先生)と同じ研究室に属していたが、ここまで詳しく韓国軍や著者の事情について伺いそびれていた。神学校も卒業し、今は牧師としても活躍される著者によると、韓国で今や国民の3割以上がキリスト信者になっている背景には、韓国の徴兵制に伴う「軍事文化」への人々の嫌悪があると伺った。
鈴木崇臣『韓国はなぜキリスト教国になったか』春秋社、2012年
聖隷クリストファー大学教授・牧師である著書による。韓国はいまや総人口の37.5%がキリスト教徒であるという。その理由を本書は探っている。全体として、韓国のキリスト教会の現状についての論述は非常に興味深い。本書から知る限り、夜明け前の「早天祈祷会」への参加など、韓国のキリスト信者が個人としても集団としても非常によく祈る人たちであるという点に、韓国でのキリスト教浸透の理由の根本がありそうに感じられた。
2012年10月13日土曜日
東浩紀『情報環境論集』講談社、2007年より「情報自由論2002-2003」
私は情報技術に関して疎いので、この東氏の議論の情報技術に関する論述をいかに評価すべきか判断できない。その上で、私の扱える範囲で東氏の議論の主な点を挙げると次のようになろうか。
①「ポストモダン」社会において社会統合を行う共通の規範(これを東氏は「大きな物語」と呼ぶ)が失われ、そうした規範に向けて個人を規律する「規律権力」の役割は廃れたが、その代り個人の多様な価値観(「小さな物語」)は尊重しつつも、社会的に望ましい方向に個人を無意識的にも向かわせる「アーキテクチャ」(環境管理)を用いた「環境管理型権力」は増大していること。
②そうした社会においては個人の主観的自由は増大すると同時に、環境管理の技術による管理社会化が進み、結果として個人は自身の理性を働かせて思考し、自律的に自らを規律する能力は薄れ「動物化」し、そうした「動物化」した個人は本人が意識せずとも環境管理された社会の内に社会の側からの作用により統合されること。
③そうした社会においては「動物化」した個人の「不安のインフレスパイラル」が生じ、ゲイテッド・コミュニティに象徴されるように、かえって多様な他者が社会的に排除されること(それゆえ「価値観の多様性」は単に主観的なものにとどまるか、あるいは管理されつつ許容された範囲で社会的に実現されるかであろう)。
これらは確かに多くの優れた洞察を含んでいるように思われる。マッキンタイアのいう「官僚制的個人主義」社会の議論にも重なるが、「ポストモダン」社会では個人の主観的自由・全能感の増大にも関わらず、客観的には個人はますます社会の追求する自己目的的な「成長」のために環境管理を通じて本人は意識せずとも奴隷化していることは確かであろう(このことは街に出て自転車などを運転しながらスマホの画面に見入っている若者たちの姿を見れば明らかであろう―この場合、環境管理がうまくいっていないとも言えるのだが)。また「不安のインフレスパイラル」の背後には、安楽な自己愛世界を守りたいという現代人の自我の在り方が伏在し、これが学校での規律権力の象徴ともいえる体罰への社会的バッシングにつながっているのではなかろうか。
ただし東氏の議論で違和感を私が感じた点は、議論があまりに情報技術と環境管理を中心に考察されていることを措くとすれば、①「大きな物語」(リオタールは『ポストモダンの条件』でこの言葉をはっきり定義していないように思われるが、かつてのユダヤ・キリスト教信仰の残響があるのは確かだろう)の喪失という事態は確かに個人の自己愛世界という断片的な「小さな物語」の併存という状況をもたらしているように思われるが、しかし、意識的な「物語」の次元の下部に「本性適合的認識」ともいうべき倫理的原則への共通の直覚が存在するのではないかということ、そうした直覚の能力なしに環境管理のみで社会統合がなしうるのか疑問であること、②東氏の議論自体においては環境管理による社会統合が「何のための」社会統合であるのかはっきり述べられていないこと(拙論では自己目的的な「成長」のためであるが)、などがあろうか。
ところで東氏の議論で最も共感した点は、「ポストモダン」社会における人間の「動物化」への傾向に関する指摘である(東氏のいう「動物化」とは「他者の欲望を欲望することという人間性が失われること」らしいが、その点については措くこととする)。人間がいかに生きるべきかに関する公共性を帯びた規範的な像(あるいは徳目)なしに、人間は人間たりうるのだろうか。そうした規範的な像、徳目はもちろん、人間とは何であり、何でありうるのかという「人間本性」に関する知見なしには成立しえない。アリストテレス的な政治共同体の内での「善き生」ということを超えて、人間の超自然的な「存在可能性」(W.Kluxen)を視野に入れる場合、キリスト教の「神化」(テオーシス)をめぐる議論は今日的意味を帯びているように思う。
2012年9月25日火曜日
マイケル・サンデル(鬼沢忍訳)『公共哲学 政治における道徳を考える』ちくま学芸文庫、2011年
Michael Sandel “Public Philosophy”,2005.の邦訳。第1部および第2部は、若き日にジャーナリストとして出発したというサンデルのジャーナリストとしての才覚があらわれた論述であろう(もともと初出は”The New Repubilic””The New York Times”に掲載されたものである)。この人の書いたものは論述が明晰であっても、常に自分の立ち位置については消極的にしか呈示しない傾向があるように思う。
ところで、この著作で最も読みごたえがあるのは第3部でのロールズの「政治的リベラリズム」への鋭い批判ではなかろうか。ロールズの「政治的リベラリズム」は「包括的リベラリズム」すなわち倫理的相対主義に基づく斉一的世界観としてのリベラリズムを否定しながらも、多元的な倫理的・宗教的・文化的な信念の間での相互寛容を説くものであったという。しかしサンデルによると「政治的リベラリズム」は結局、世界観としての「包括的リベラリズム」を国家全体に押し付けざるを得ないのであり、「寛容」「相互尊重」という価値が他のあらゆる価値に優位しなければならないという前提に立つと論じる(同書332頁)。さらに結局は寛容という政治的価値を国家の公的領域に、その他の倫理的・宗教的・文化的価値を私的領域に振り分けることはできないと説く。
そして法・政治と道徳・宗教・文化を分離しようとする政治的リベラリズムが不可能な以上、公共的な法・政治の領域が前提とすべき、公共的な道徳・宗教・文化について社会のざまざまのグループの公共的討論を通じての合意の可能性を探るべき、こうサンデルは説いていると言えるのではないか。
ただし、本書では多文化的な国家において、そうした公共的な合意がいかに可能かの説明はないように思う。またサンデルが自身の道徳的見解として、人工妊娠中絶と子供を殺すことの間に道徳的線引きができるかのような発言も見られるが(335頁)、そうしたサンデルの見解が果たして公共的な見解として(法制度の問題としてならともかく少なくも倫理的信念の問題としては)どれほどの普遍的同意を得られるか疑問ではないか。正義原理についてすら普遍的同意が成立しえないことをロールズへの批判の中で指摘している以上(346頁)、まして道徳的見解については公共的議論の必要を主張するだけでは不十分であり、いかなる道徳的内容を立法に反映させるか、立法段階で最終決定せざるを得ず、その点についてサンデルがどう考えているのか、この本では不分明であるように思う。
結局、「法と道徳」の分離、「善に対する正の優位」を説くリベラリズムに対する批判としてはサンデルの主張は肯定できるが、サンデル自身の控え目ながら暗示されている道徳的見解には筆者は組しえないし、全体に不満を感じる。しかし正義を人間の本性とその目的(善)の側から定義しようとしているらしい点自体は同意できよう(376頁)。
2012年8月30日木曜日
C.S.ルイス(鈴木訳)『キリスト教の世界』大明堂、1983年
『ナルニア国物語』で知られるC.S.ルイスのラジオ講演を書籍化したもの(原題"Mere Christianity",1960)。人間の罪の問題から説き起こして、贖罪論、キリスト教倫理、神論(三位一体論)、救済論へと進み、最終的にキリスト教の本質を各人の「神化(キリスト化)」にあるものと説いている。
同著者の『悪魔の手紙』も感銘を受けたが、本書はキリスト教入門書として抜群にすばらしいものであると思う。キリスト教の本質を、著者ならではのわかりやすい比喩を用いて極めて平明に説いている。未信者の方よりもむしろキリスト教信者がキリスト教をいわば「復習」するための講演であるかもしれないが、未信者の方にもわかりやすいものではないかと思う。
同著者の『悪魔の手紙』も感銘を受けたが、本書はキリスト教入門書として抜群にすばらしいものであると思う。キリスト教の本質を、著者ならではのわかりやすい比喩を用いて極めて平明に説いている。未信者の方よりもむしろキリスト教信者がキリスト教をいわば「復習」するための講演であるかもしれないが、未信者の方にもわかりやすいものではないかと思う。
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