2012年10月13日土曜日

東浩紀『情報環境論集』講談社、2007年より「情報自由論2002-2003」

 私は情報技術に関して疎いので、この東氏の議論の情報技術に関する論述をいかに評価すべきか判断できない。その上で、私の扱える範囲で東氏の議論の主な点を挙げると次のようになろうか。
 ①「ポストモダン」社会において社会統合を行う共通の規範(これを東氏は「大きな物語」と呼ぶ)が失われ、そうした規範に向けて個人を規律する「規律権力」の役割は廃れたが、その代り個人の多様な価値観(「小さな物語」)は尊重しつつも、社会的に望ましい方向に個人を無意識的にも向かわせる「アーキテクチャ」(環境管理)を用いた「環境管理型権力」は増大していること。
 ②そうした社会においては個人の主観的自由は増大すると同時に、環境管理の技術による管理社会化が進み、結果として個人は自身の理性を働かせて思考し、自律的に自らを規律する能力は薄れ「動物化」し、そうした「動物化」した個人は本人が意識せずとも環境管理された社会の内に社会の側からの作用により統合されること。
 ③そうした社会においては「動物化」した個人の「不安のインフレスパイラル」が生じ、ゲイテッド・コミュニティに象徴されるように、かえって多様な他者が社会的に排除されること(それゆえ「価値観の多様性」は単に主観的なものにとどまるか、あるいは管理されつつ許容された範囲で社会的に実現されるかであろう)。
 これらは確かに多くの優れた洞察を含んでいるように思われる。マッキンタイアのいう「官僚制的個人主義」社会の議論にも重なるが、「ポストモダン」社会では個人の主観的自由・全能感の増大にも関わらず、客観的には個人はますます社会の追求する自己目的的な「成長」のために環境管理を通じて本人は意識せずとも奴隷化していることは確かであろう(このことは街に出て自転車などを運転しながらスマホの画面に見入っている若者たちの姿を見れば明らかであろう―この場合、環境管理がうまくいっていないとも言えるのだが)。また「不安のインフレスパイラル」の背後には、安楽な自己愛世界を守りたいという現代人の自我の在り方が伏在し、これが学校での規律権力の象徴ともいえる体罰への社会的バッシングにつながっているのではなかろうか。
 ただし東氏の議論で違和感を私が感じた点は、議論があまりに情報技術と環境管理を中心に考察されていることを措くとすれば、①「大きな物語」(リオタールは『ポストモダンの条件』でこの言葉をはっきり定義していないように思われるが、かつてのユダヤ・キリスト教信仰の残響があるのは確かだろう)の喪失という事態は確かに個人の自己愛世界という断片的な「小さな物語」の併存という状況をもたらしているように思われるが、しかし、意識的な「物語」の次元の下部に「本性適合的認識」ともいうべき倫理的原則への共通の直覚が存在するのではないかということ、そうした直覚の能力なしに環境管理のみで社会統合がなしうるのか疑問であること、②東氏の議論自体においては環境管理による社会統合が「何のための」社会統合であるのかはっきり述べられていないこと(拙論では自己目的的な「成長」のためであるが)、などがあろうか。
 ところで東氏の議論で最も共感した点は、「ポストモダン」社会における人間の「動物化」への傾向に関する指摘である(東氏のいう「動物化」とは「他者の欲望を欲望することという人間性が失われること」らしいが、その点については措くこととする)。人間がいかに生きるべきかに関する公共性を帯びた規範的な像(あるいは徳目)なしに、人間は人間たりうるのだろうか。そうした規範的な像、徳目はもちろん、人間とは何であり、何でありうるのかという「人間本性」に関する知見なしには成立しえない。アリストテレス的な政治共同体の内での「善き生」ということを超えて、人間の超自然的な「存在可能性」(W.Kluxen)を視野に入れる場合、キリスト教の「神化」(テオーシス)をめぐる議論は今日的意味を帯びているように思う。

2012年9月25日火曜日

マイケル・サンデル(鬼沢忍訳)『公共哲学 政治における道徳を考える』ちくま学芸文庫、2011年


Michael Sandel “Public Philosophy”,2005.の邦訳。第1部および第2部は、若き日にジャーナリストとして出発したというサンデルのジャーナリストとしての才覚があらわれた論述であろう(もともと初出は”The New Repubilic””The New York Times”に掲載されたものである)。この人の書いたものは論述が明晰であっても、常に自分の立ち位置については消極的にしか呈示しない傾向があるように思う。

 ところで、この著作で最も読みごたえがあるのは第3部でのロールズの「政治的リベラリズム」への鋭い批判ではなかろうか。ロールズの「政治的リベラリズム」は「包括的リベラリズム」すなわち倫理的相対主義に基づく斉一的世界観としてのリベラリズムを否定しながらも、多元的な倫理的・宗教的・文化的な信念の間での相互寛容を説くものであったという。しかしサンデルによると「政治的リベラリズム」は結局、世界観としての「包括的リベラリズム」を国家全体に押し付けざるを得ないのであり、「寛容」「相互尊重」という価値が他のあらゆる価値に優位しなければならないという前提に立つと論じる(同書332頁)。さらに結局は寛容という政治的価値を国家の公的領域に、その他の倫理的・宗教的・文化的価値を私的領域に振り分けることはできないと説く。

 そして法・政治と道徳・宗教・文化を分離しようとする政治的リベラリズムが不可能な以上、公共的な法・政治の領域が前提とすべき、公共的な道徳・宗教・文化について社会のざまざまのグループの公共的討論を通じての合意の可能性を探るべき、こうサンデルは説いていると言えるのではないか。

 ただし、本書では多文化的な国家において、そうした公共的な合意がいかに可能かの説明はないように思う。またサンデルが自身の道徳的見解として、人工妊娠中絶と子供を殺すことの間に道徳的線引きができるかのような発言も見られるが(335頁)、そうしたサンデルの見解が果たして公共的な見解として(法制度の問題としてならともかく少なくも倫理的信念の問題としては)どれほどの普遍的同意を得られるか疑問ではないか。正義原理についてすら普遍的同意が成立しえないことをロールズへの批判の中で指摘している以上(346頁)、まして道徳的見解については公共的議論の必要を主張するだけでは不十分であり、いかなる道徳的内容を立法に反映させるか、立法段階で最終決定せざるを得ず、その点についてサンデルがどう考えているのか、この本では不分明であるように思う。

 結局、「法と道徳」の分離、「善に対する正の優位」を説くリベラリズムに対する批判としてはサンデルの主張は肯定できるが、サンデル自身の控え目ながら暗示されている道徳的見解には筆者は組しえないし、全体に不満を感じる。しかし正義を人間の本性とその目的(善)の側から定義しようとしているらしい点自体は同意できよう(376頁)。

2012年8月30日木曜日

C.S.ルイス(鈴木訳)『キリスト教の世界』大明堂、1983年

 『ナルニア国物語』で知られるC.S.ルイスのラジオ講演を書籍化したもの(原題"Mere Christianity",1960)。人間の罪の問題から説き起こして、贖罪論、キリスト教倫理、神論(三位一体論)、救済論へと進み、最終的にキリスト教の本質を各人の「神化(キリスト化)」にあるものと説いている。
 同著者の『悪魔の手紙』も感銘を受けたが、本書はキリスト教入門書として抜群にすばらしいものであると思う。キリスト教の本質を、著者ならではのわかりやすい比喩を用いて極めて平明に説いている。未信者の方よりもむしろキリスト教信者がキリスト教をいわば「復習」するための講演であるかもしれないが、未信者の方にもわかりやすいものではないかと思う。

R.N.ベラーほか(中村訳)『善い社会 道徳的エコロジーの制度論』みすず書房、2000年

善い社会―道徳的エコロジーの制度論
 同じ著者らによる『心の習慣』の続編に位置づけられている著作。
 全体として、自由主義的個人主義を批判する共同体主義の立場から、個人と社会とをつなぐ「制度」の意義を説いている。副題の「道徳的エコロジー」は本書中「社会的エコロジー」とも呼ばれているが、個人を取り巻く社会・文化的環境のことで、ヨハネ・パウロ2世の『百周年回勅』(1991年)では「ヒューマン・エコロジー」と呼ばれていたものである。本書も、『百周年回勅』にも沿った方向で(このことは著者らがアメリカ司教団の"Economic Justice for All"を高く評価していることからも伺われる)、J.ロックに由来する社会哲学としての自由主義的個人主義と経済哲学としての「新自由主義」が、アメリカと世界の「道徳的(社会的)エコロジー」に破壊的影響をもたらした事を指弾している。また自然環境問題とそうした「道徳的エコロジー」の問題の関連も示唆されている。
 著者らはロック的な個人の自由と利益の最大化を目指す社会・経済哲学に代わり、地球規模での普遍的共同体、また逆にローカルな地域的共同体の共同善を志向する個人を育てるアメリカの聖書的伝統および共和主義的伝統を再興することを自由主義的個人主義のもたらした問題の解決策として提示している。
 著者らの解決案への疑義として、共和主義はともかく、聖書的伝統を地球規模でいかに普遍化しうるかというものが当然予想されるであろう。私見では著者らの議論には、共和主義という政治的エートスとキリスト教という宗教的エートスの間に来ると思われる、普遍的な倫理的エートスの次元の議論が希薄であるようにも感じられる。
 しかし全体としては、自由主義的個人主義のもたらした問題点を見据え、共同善へのまなざしを開く「社会倫理学」の必要性を鮮やかに示した著作と言えるだろう。また終章で論じている「注意」をめぐる議論がユニークである。ただし、共同善に向けての実践を「注意」という心理学的概念で語らざるを得なかった点が、この著作において本来の倫理的なものへのまなざしが希薄であることの表れでもあるかもしれない。「注意」ではなく、実践理性の「賢慮」を語るべきではなかったのか…。
 また個人主義を超えて制度の意義を説くという点はすでにかつてジョルジュ・ルナールなどが説いていたことであった(ルナール(小林訳)『制度の哲学』栗田書店、1941)。
 
 

2012年8月28日火曜日

篠澤 和久/ 馬渕 浩二編『倫理学の地図』ナカニシヤ出版、2010年

現代日本の中堅倫理学研究者の方々による大学学部生むけの倫理学の教科書。功利主義・義務論・徳倫理学という現代の英語圏の倫理学を中心にみられる規範倫理学の三分法を基本に、ニーチェやベルクソンなど「生の哲学」や日本倫理思想にもページがさかれている。分かりやすい事例から説き起こされ、平明な文章で書かれている。論述は全体に穏当であるように思われる。参考文献も挙げてあり親切。翻訳ものにはない分かりやすさがあり、教科書・参考書として優れた本であるように思う。
 ただし、本書を読んでも伺うことが出来るが、現代の英米を中心とする倫理学は行為の究極目的を問わず、個々の行為の善さを問題するにとどまり、いわば「善い行為」を問いえても、「善き生」は問いえていないように思われる。それは実は同時に死の意義をいかに問うかという問題とも連関するが、この点に関しては倫理学ではなく、むしろ「死生学」にその役割が割り振られているようにも思われる。

2012年8月21日火曜日

岩本潤一訳注『現代カトリシズムの公共性』知泉書館、2012年

 日本のカトリック教会の中心部とも言えるカトリック中央協議会司教協議会秘書室に勤務する著者による翻訳と著作。タイトルから伺われるように、ローマ(ヴァチカン)を中心としたカトリック教会の現代世界の諸問題に対するオーソドックスな見解を翻訳解説している。
 第1章から3章はいわゆる生命倫理に関する諸問題を扱う。人格的生命の始期、ES細胞研究のはらむ倫理的問題、「植物状態」における胃瘻による栄養補給の問題などが取り上げられる。特に「植物状態」は終末期ではないという見解は、「尊厳死」問題と「植物状態」とがしばしば結び付けられるだけに注目されよう。
 第4章はヨーロッパなどで法制化の進む同性婚の問題と、同性愛傾向の人の叙階の問題が論じられている。
 第5章はニューエイジ運動の問題が取り上げられ、同運動が倫理的相対主義と政治的無関心を通じての全体主義化につながる危険性が指摘されている。
 第6章の裁判員制度に関しては、政教分離の点から聖職者の同制度への参加が否定される半面、一般信徒にはむしろ共同善への寄与の面で参加が薦められている。
 第7章では、カトリックの伝統的な正当戦争の理論が取り上げられるが、シリア情勢でも問題になっている「保護する責任」論への言及が重要な論点であろう。
 第8と第9章は、ヨハネ・パウロ2世教皇と、ベネディクト16世教皇の事績のまとめである。ヨハネ・パウロ2世教皇の意図したことは、回勅や書簡、談話等を通じての第2バチカン公会議の決定の「正しい解釈」の普及にあったこと、また教理省長官として前教皇に仕えたベネディクト16世教皇もその路線を受け継いでいることが述べられている。
 全体として、第2バチカン公会議以降のカトリック教会が現代世界の内で本来目指しているところを、著者独自の主張も交えながら、いくつかの現代的論点において描いており、大変興味深い。
 

2012年5月5日土曜日

ヴィリー・マルクセン「史的および神学的問題としてのイエスの復活」(村上伸訳『イエスの復活の意味』新教出版社、1974年所収)

マルクセンはブルトマン学派の神学者。史的な意味でのイエスの復活は否定するが、初代教会の「ケリュグマ(宣教)」のなかへのイエスの復活は肯定する、という趣旨らしい。しかし、論文の末尾で著者が「私が今日、―説教のなかで―この宣教(ケリュグマ)によって動かされるとするならば、…中略…その時に私にとって、終末的なものの先取りが起こるのである」とするとき、史実としての真偽が問えない「復活」の「宣教」は、ちょうどメタ倫理学上の「情動主義」における、倫理的言明の意義(「非認知説」として倫理的言明は真偽という性格をもたないが他者の情動にのみ作用しうるという)に似通った性格を持っているようにも思われる…。

2012年4月18日水曜日

雨宮慧『聖書はなぜ奇跡物語を語るのか』教友社、2011年

 現代日本のカトリックの代表的な旧約学者雨宮慧師の講演を出版したもの。新約の「自然奇跡」「癒しの奇跡」「悪霊追放の奇跡」について、聖書という書物の性格から説明しつつ解き明かしている。新約の奇跡物語に影響を与えた旧約テクストを参照しつつ、聖書箇所を釈義している。いつもながら非常に鋭い聖書の読みを示しておられる。ほかに、「サタン」概念が旧約に登場したのは紀元前4,5世紀であるという論述が特に興味深かった。

2012年4月15日日曜日

コンラート・ローレンツ(谷口訳)『人間性の解体〔第2版〕』思索社、1999年。

著名な動物行動学者の晩年の著作。筆者の不案内な分野である。 
 現代の技術主義文明への文明批評としては格別目覚ましものはないように思うし、正直なところどころ哲学的なナイーブさも感じられるようにも思う。現代文明批評に関してはやはりマックス・ピカートのものが最も先鋭であるように思う。
 印象に残った議論として「テレオノミー」の議論がある。偶然的な進化の結果、種にあたかも目的論的な合理性を持ったかのごとき特性が生じることを意味するらしい。
 子供の生命への畏敬の感覚を養うために実物教育の意義を説いたりするなど、実践的に目指していることは全体に穏当であるように思う。

2012年4月9日月曜日

Martin Rhonheimer,The Perspective of the Acting Person Essays in the Renewal of Thomistic Moral Philosophy,The Catholic University of America Press,2008.

マルティン・ローンハイマー(1950~)はドイツ生まれ、現在はローマの聖十字架大学(オプス・デイ)の倫理学者。トマス・アクィナスの自然法論研究や生命倫理学、家族倫理学、政治哲学関係の著作で知られる。
 ローンハイマーはトマスの自然法倫理学を徳倫理学として理解すべきことを主張する。本著作は彼の論文集。全体に難解で、正直なところ論述の繰り返しも多いように思う。
 特に印象に残った議論を本書から引用したい。規範倫理学説としての帰結主義に関して、「これは確かに合理性ではあるが、道徳的な意思決定の合理性ではない。それはむしろ制作(ポイエーシス)の合理性に属すると言ってよいもので、技術的な意思決定であり、より良き世界を『作ること』に関わるものである。」としている。つまり、行為の有徳さを問題にしない帰結主義は、実践(プラクシス)よりは制作(ポイエーシス)に関わる「技術主義」だというのである。帰結主義では技術により望ましい結果が惹起されればよしとされるわけで、結果を惹起するに至るまでに必要とされる行為者の有徳性は問題にならなくなってしまう、とローンハイマーは述べ、実践理性の賢慮の徳の意義を強調する。
 

2012年4月8日日曜日

ヨハネス・メスナー(水波・栗城・野尻訳)『自然法 社会・国家・経済の倫理』創文社、1995年

原著はJohannes Messner,Das Naturrecht Handbuch der Gesellschaftsehtik, Staatsethik und Wirtschaftsethik 7teAufl.,Duncker & Humblot,1984.

 筆者の専門分野。現代日本にはいまだほとんど存在していないと言ってよい社会倫理学(含む国家倫理学および経済倫理学)の体系的著作として貴重。人間の自然本性(natura humana)という善への傾向性と、実践理性の賢慮の徳によるその秩序付け(メスナーは「実存的諸目的」とよぶ)ということに倫理学の理拠をみる「自然法倫理学(Naturrechtsethik)」の立場に立つ。基礎倫理学部分と、社会・国家・経済倫理学の応用倫理学部分を含む。現代の倫理学「大全(summa)」とも言うべき記念碑的著作。ちなみにこの本の索引の作成に大学院生数名がかりで1か月ほどかかった…。

ワルター・カスパー(犬飼政一訳)『イエズスはキリストである 現代カトリックキリスト論概説』あかし書房、1978年


原著はWalter Kasper,Jesus der Christus 2teAufl.,Mainz,1975.
ワルター・カスパー枢機卿はカトリック・チュービンゲン学派の神学者。キリスト論論争史など含めて、キリスト論に関する論点が一通りわかる。犬飼師の翻訳も良いように思う(厳密に原典と対照しながらチェックした訳ではない。今回は文意の分かりにくいことろだけ原典で読んだ)。特に興味深かったのは第3部第3章の聖霊論のところか。組織神学的な背景としては(スコラ学的な方向だけでなく)ヘーゲル的思考がところどころ垣間見えるように思う。


ノーマン・ぺリン(松永希久夫訳)『編集史とはなにか』ヨルダン社、1984年

恥ずかしながらこの本で初めて聖書学研究上の方法論である「編集史」について学んだ。原文と照合していないが、翻訳は平明で、全体に読んでいて興味が尽きない。著者ぺリンは「史的イエス」の探究に否定的なブルトマン学派らしい。訳者の松永師は「あとがき」でその点に関してぺリンの批判を試みている。
  「ケセン語訳聖書」で知られる岩手県気仙地方の開業医山浦玄嗣さん(1940~)の新書版の本です。人に勧められて読みましたが、聖書ギリシア語の翻訳に関して多くの示唆を得ました。先日、NHKの「心の時代」にも出演しておられましたが、津波災害にも関わらず強く明るく信仰の道を歩まれておられる姿が伺われ、印象的でした。

2012年4月7日土曜日

内藤理恵子『哲学はランチのあとで―映画で学ぶやさしい哲学』風媒社、2011年ほか2作

 埋葬文化(お墓)研究者兼イラストレーターの内藤理恵子さんの著作三部作です(『ホネになったらどこへ行こうか』『哲学はランチのあとで』『映画じかけの倫理学』)。それそれ死生学、哲学、倫理学の分野のテーマを扱っています。該博な映画や文学からの引用と哲学者の言葉からの引用を絶妙にマッチさせています。加えて著者自身による楽しいイラストで飾られ、肝心の文章自身もまったくの初学者にもわかりやすく、共感できるもので、こうした一般向け哲学入門書としては総合的にみて非常に優れたものだと言えると思います。

長倉禮子『ジョン・ヘンリー・ニューマンの文学と思想―影と幻から現実へ』知泉書館、2011年


 オックスフォード運動で知られる19世紀イギリスの神学者ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801~1890)に関する日本人研究者による貴重な研究書です。大学を、知識の習得以前に、教師と学生の人格の出会いの場と捉えるニューマンの大学論についての論考や、ニューマンが比較的晩年に、死後の人間の魂の行方について詩作して、エルガーのオラトリオにもなっている『ゲロンシアスの夢』の邦訳などを含んでいる本です。
 私は、一時期ニューマン研究者Ian Kerが編集したニューマンの説教集(主に"Parochial and Plain Sermons"より)を日曜ごと読んでいた時期がありますが、ニューマンの真摯な霊性は今日でも大変魅力的に感じられます。