2015年1月21日水曜日

矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』集英社、インターナショナル、2014年

 「『戦後日本』が今後、終焉へと向かうなかで、『あたえられた民主主義』ではなく(結局そんなものはどこにも存在しませんでした)、本当の民主主義を自分たちの手で勝ちとってゆくプロセスが、必ずどこかで始まります。具体的には、新しい憲法を制定して、市民の人権が守られるようなまともな法治国家をいちからつくってゆくというプロセスです。そう考えると、とてもやりがいのある時代に生まれたち言えるのではないでしょうか。」(同書244~245頁)。

 この本は、すでに話題になっているようだが、戦後日本の体制について適切な要約をしていると言えるだろう。新憲法制定により、真の立憲主義を日本にもたらそうという趣旨には誠に共感する。問題は、①どのような内容の新憲法を、②どのように作るかという点だが、①内容に関しては「国連中心主義の」「国際法の原則」(273頁)に従うというにとどまっている。確かに、世界人権宣言や、国際人権規約は、新日本国憲法を策定する上で、無視できないだろうが、さらに、法哲学的な考察が必要であるのは言うまでもないだろう。自然法論の立場からの拙論は、不十分ながら「新しい憲法の話」(http://2raimund-akihiro-ikawa.blogspot.jp/2014_01_01_archive.html)に述べた。

 ②新日本国憲法を、「いかに」起草するかはより難しい問題だろう。まず、憲法起草会議に先立つ実質的な条文起草のための委員会の人選を誰がどう決めるのか。日本の各社会勢力が、ここぞとばかりに影響力をふるうために自らの代表を送り込もうとするだろう。また、それに伴い、マスコミの影響下にある「国民世論」がどう醸成されて行くのか、難しい問題だろう。マスコミを動員できる社会勢力が、世論操作の上で最強の力を用いるのは確かであろう。


 難題山積だが、憲法を日本国民自身が立法しなければ、近代的な立憲主義がないのは確かである。近代立憲主義は、国民が、自分たちが立てたルールに自ら服するという自律を原理としているのであるから。しかし、問題は、そうした近代的自律を前提にしない、国民自身の外に「立法者」をもつような立憲主義の評価であろう。この点については私もさらに熟考してみたいが、「立法者」が(モーセのごとく民族を代表して神から律法を授かるのではなく)人間ないしその集団である場合、被治者は「立法者」に隷従することになるのは確かだろう。

2014年2月8日土曜日

稲垣良典『平和の哲学』第三文明社レグルス文庫、1973年

 かつて評論家の山本七平氏は「平和については平和語で語らねばならない」と説いていたが、本書はさらに深く、平和をもたらす《平和の人》の条件を、「徳としての正義」の観点から考察している。

 すなわち、著者によると、平和は平和を叫んでデモンストレーション等を行ういわゆる平和運動により直ちにもたらされるものではなく(平和を叫びつつも攻撃的な心を人間は持ちうるであろう)、人間の存在の仕方の《平和の人》への変容を待って初めて可能であるという。いわば、それは人間の魂のあり方の転換である。

 一般的には平和は正義の果実であるとされる。正義が実現することで平和が実現するというのである。しかし、「正義」の名の下に争いが生じていることも確かである。そこで著者は、正義についてより厳密に考えねばならないことを説く。

 すなわち、ただ自己中心的な視点から、自分(達)の《所有》を確保するために、「正義」を大義とすることがまさしく個人間や国家間の争いの元となるのであるが、そうした「自分(達)のもの」の所有中心の構えを転換して、人類全体の真の「共通善」という、普遍的な善を追及するよう、各人・各国家のあり方を転換せねばならない、そうした「共通善」を追及する「徳としての正義」を、人間が一つの「習慣」として身に着けることにより、初めて真の平和が実現すると著者は説く。

 つまり、人間が、様々の財貨=それぞれの個別的な善という果実を主観的な「権利」として我有しようという自己閉鎖的な構えを捨て、より多くの人に開かれ、様々の財貨=個別的な善という果実がそこに由来するはずの、より普遍的な善=共通善を追及するような開かれた人に各人がなること、これが《平和の人》の条件であると説かれていると言えようか。言い換えれば、各人は自分一個の利益のために職業・経済活動や社会活動を行うのではなく、人類全体の善益を見据えて、そこに貢献することを目指しつつ自己の活動をなすべきこと、またその見返りは、あくまで多くの人のそうした共通善への共同の貢献の結果、その果実として受け取るものであるという趣旨であろう。

 しかし、ここでいう、普遍的な共通善とは、同著者の『トマス・アクィナスの共通善思想』によると、国家共同体内での人間の社会的・経済的活動の果実としての「公共の福祉」から、「共同善としての宇宙秩序」まで、様々の層・段階があるのだが、最終的には「共通善としての神」という点に行き着くという。

本書で著者は、複数の人の意志が一つの合意に達している「和合」(concorida)と区別されて、「平和」(pax)であるためには、さらに各人が自分自身に敵対していないこと、自己分裂のないことが必要であると説いている。確かに自分が自分に敵対していては、およそ他者との間にも和合はないであろう。自分が自分と和解・和合するためには、著者の依拠するトマス・アクィナスによると「すべてを神へと結びつけ、心を尽くして神を愛し、こうして我々のあらゆる欲望が一つのものへの向かうようにすること」(本書92頁)が必要であるという。言い換えると、自分と和解すること、自己分裂の克服は、神においてなしうるということであろう。

また、真に部分的でない普遍的な共通善を求めるには、常に善の超越的・普遍的な側面を求めねばならず、それは最終的に「共通善としての神」を求めることにならざるを得ないという趣旨でもあろう(ここでいう「共通善としての神」とは、著者は述べていないが、様々の実定宗教の視角をもある意味で超越したものと言うことも出来るかもしれない)。

そこから、著者は平和のための教育のモデルとして、西洋修道制の父とされる、ヌルシアのベネディクト(AD480~547)の「戒律」を高く評価し、「戒律」で説かれるような共同体的な魂の訓育が、《平和の人》を育てる上で示唆するものがあることを述べている。

 平和をもたらす手段として、国民国家の主権を廃した主権的な「世界国家」の確立が説かれることもあるが、本書はそれ以前に、権力を行使したり、逆に権力に社会運動を通じて対抗しようとしたりする、人間の《あり方》を問題にしている点で優れた著作であるように思う。こうした深い洞察を持った著者は、残念ながら現代の日本では失われつつあるのではないだろうか。

2014年1月5日日曜日

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房(神谷美恵子コレクション)、2004年。


 本書はここ数年、授業で取り上げてきた。昭和の時代の精神科医、神谷美恵子(1914~79年)の代表作と言ってよい著作であろう。彼女がハンセン病療養施設・長島愛生園でハンセン病の人たちの「生きがい」について行ったアンケート調査が素材として用いられているが、(太田雄三氏などの研究によると)神谷美恵子自身の手記なども引用されているらしいし、それ以外のさまざまの人の文章が引用されている。心理学的な手法による、哲学的人間論風の著作と言えるのではないだろうか(その点がいわばこの著作がすこし捻じれている点かもしれない)。特にハンセン病療養者について言えば、さまざまの社会的・身体的な善を奪われた人の、いわば「裸の魂」における「生きがい」が取り上げられていると言えるだろう。

 本書は、第56章を転回点として、前半部分と後半部分に分けることも出来るように思うが、前半部分では、いわば順風満帆な人生の、一般的・世間的な生きがいが中心に論じられるのに対して、後半部分では、人生の苦境を経ての、新たな精神化された「生きがい」の再発見について論じているとみることが出来よう。特に、打ちひしがれた心が、「心の構造の組み換え」を経て、精神的な生きがいを再び見出すプロセスで生じうる「変革体験」についての記述が興味深い。神谷美恵子自身がかような「変革体験」をし、また本書中に、自らの手記から引用してその体験を記述しているようだ。

 神谷美恵子は、若い時分に三谷隆正や新渡戸稲造や叔父の金沢常雄らを通じて、キリスト教の強い影響を受けたと言われているが、本書が全体として扱っているテーマは、実は、人間のこの世での「死と再生(復活)」であるように思う。現世での「死と復活」についての論述は、キリスト教の説く、終末論的な「死と復活」を理解するうえで、示唆するところもあるのかもしれない。

2013年8月14日水曜日

J.S.ホールデン(稲生・山縣訳)『生物学の哲学的基礎』弘文堂、1941年

 J.S.ホールデン(1860~1930)はスコットランドの生理学者。本書は下の澤瀉『医学概論』に引用されていることから知った。小生に理解できる限りでいえば、本書は「生命」を物理現象に還元することを否定し、生命とは「神秘」(92頁)であり、また「生体の生命とは不断に自己自身を維持しまた増殖している不可分な整合的全体である」(126頁)として、生命自身の存在の固有法則性・統合性を説いて、物理学、生物学、心理学がそれぞれ異なる存在の領域を扱う学であると説いている。また学的認識は畢竟するところ「神」の認識であるとも説く(132頁)。バークレーを若干修正しつつ、「神は〔人間の〕意識的行為の中に示される最高価値のなかに含まれるものを感得することによって初めて我々に開示されるのである。」(147頁)、「我々が真理を探究する限り、神は能動的知覚者としての、また意志的行為者としての我々の知覚の中に存在し、また我々自身の中にも存在する。」(148頁)とする。

 しかし、本文と並んで、或いはそれ以上に興味深いのは、巻末の田宮博氏による本書の解説とホールデンへの批判である。田宮氏によると、生物の内にみられる目的性には、①機械論的・偶然的な因果関係の帰結が目的性のごとく見える「終局」(Ziel)と、②生物自身の内在的・自発的な原理に基づく勝義の「目的」(Zweck)とが区別されねばならない。勿論、進化論で問題になるのは「終局」にすぎない。そして、「生命」とは「終局」と「目的」との「相補的対立」(158頁)を原理とするものであるという。

 そして③「生物学」は生命現象を「終局」の観念を用いて、物理学的合法則性に従い探究する学問であり、結局、「合目的性」を「合終局性」に、生命現象を物理学に還元するものであるとする。これに対して「生命学」は生命現象を「目的」の観念を用いて、形而上学的な合目的性に従い探究する学問であるとする。そして田宮氏の立場は、生物学者は③「生物学」を営むものであり、決して④「生命学」を営んではならないというものである。そして最後に次のような驚くべき率直な結論を述べる。

 「かくして生物学は生命現象を物理現象に、合目的性を合終局性に還元することをその目的とすることによって一つの自然科学として成立しうるのである。『生命』なる概念が合目的性と不可分なものであるとするならば、生物学は生命を対象としながら生命なる概念を破壊しようとしているものであると云える。生物学者は生命なる観念を抹殺しようと努力する限りにおいて自然科学者であり得るのである。」(166頁)

 この議論は真に興味深い。大変明晰な議論だが、そうであるならば、物理学に還元された生物学ではもはや「生命」について論じられず、「生命」について論じるのは「生命学」という形而上学の課題であり、哲学者の仕事であることになる。ホールデン自身はむしろ生物学を観念論的な形而上学に還元しようとしたとも理解できるだろう。

 また原書は確認していないが、格調高くこなれた翻訳でもあると思う。この時代の日本の学者のレベルの高さに改めて敬服してしまう。

2013年8月5日月曜日

澤瀉久敬『医学概論Ⅱ 生命について』創元社、1952年

 著名なベルクソン研究者であり、大阪大学医学部「医学概論」担当教授であった著者による『医学概論』三部作の第二部である。
 
  人間の身体的生命の本質を、科学的知見を踏まえつつ、「気」という能動的原理と「体」という受動的原理の「二元的一元性」において捉えるのみならず、「魂の不滅」についていわば終末論的に考察している。

 「一つ一つの精神は地上において身体を通じてのみ自己を形成するものであり、身体を離れてはそれ以上自己を形成発展させることはできない。しかしそれはより優れた精神によって自己を高めることができると考えてはどうであろうか。それを許すとすれば、いかなる精神界が生まれるかは、いかなる精神を人類がこの世において生み出すかという点にかかっており、そこにこそ人間存在の目的と、精神的創造の喜びがあると考えてはどうだろうか。宇宙は何時かは永遠の死に帰るであろう。しかしその時こそ精神の国が物質の国を超えて独立するときであり、しかもどのような精神の国が誕生するかは一に懸って現在の生命の精神的自己創造にあると考えてはどうであろうか。」(284頁)

 
  そのほか、「精神的環境とは、肉体と分離した精神があると考える場合、そのような魂の間に成り立つ一つの社会である。」(120頁)とする精神的環境についての議論、死者の追憶の意義(253頁)、ハンス・ドリューシュの生気論への評価(50頁)など、多くの非常に興味深い議論がみられる。

  正直なところ、現在の日本にこれだけの哲学者が存在するだろうか…。

2013年5月28日火曜日

A.G.Sertillanges,O.P.(trenslated by J.V.Schall),The Intellecutual Life Its Spirit,Conditions,Methods,The Catholic University of America Press,1998.

  ドミニコ会士セルティヤンジュ(1863~1948)の著名な著作(渡辺昇一氏の『知的生活の方法』にも言及がある)。大変な名著の一つであろう。キリスト教文化・信仰が背景になっているので、そうした背景を持たない人にはややわかりづらい点もあろうが、研究者として生きてゆく精神的支えとなる本である。

    研究生活一般に関するアドバイス(たとえば他人からの厳しい批判をどう受け止めるべきかとか)のみならず、そもそも研究生活というものの意味をキリスト教的な生き方の内に位置付けている点が素晴らしいと思う。前者に関しては「真のインテリとは忍耐する者のことである」(p.226)と説くあたり、襟を正させられるものがある。後者に関して、この本は、あくまでプロの研究者としての意識を持つことを厳しく説きながらも、しかしたとい目立った社会的成功のない人生であっても、神と信仰の内にかかわることを全うするならば、人生の究極目的は満たされたのであり、成功した人生であると説いてもいるあたりには慰められるものがある。

 さらに、「第一原理」を拒む今日の諸学がその根源において総崩れの状態に陥りつつあり、これを克服するためには、諸学の学者も、学の究極の統一原理を与える神学をある程度学ばねばならない(具体的に1週4~6時間を4~6年間学ぶことを勧めている!)ことを説いているあたりは慧眼であろう(p.109)。

 またトマス・アクィナスの『兄弟ヨハネスへの学習法に関する訓戒の手紙』を深く解説している個所もあり、興味深い。

2013年3月2日土曜日

ファーガス・カー(前川登/福田誠二監訳)『二十世紀のカトリック神学 新スコラ主義から婚姻神秘主義へ』教文館、2011年

 本書はM.D.シュニュ、I.コンガール、スキレベークス、ド・リュバック、ラーナー、ロナーガン、バルタザール、H.キュンク、ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世)、ラッツィンガー(ベネディクト16世)と、第二バチカン公会議に直接・間接に影響を及ぼしたとされる、いわゆる「新神学」周辺の著者を扱っている。

 訳文はやや読みにくい箇所もあるように思うが、それぞれの著者の特徴的議論について簡潔に知ることのできる本書は非常に貴重であるように思う。
 
 
 全体として、公会議前のトマス主義に基づく「新スコラ学」の、非歴史的・形而学的神学から、公会議後の歴史的・聖書的神学へとカトリック神学の方向転換がなされたという思想史観に基づいて論述がなされている。
 
 私は本書の論述を総括的に論評することは出来ないが、ただ一つ違和感を感じるのは、著者が批判的に論じる公会議前の「新スコラ学」神学が何であるのかという点である。具体的にはガリグ=ラグランジュが槍玉に挙げられて常に批判されているが(ドミニコ会士である著者の近親憎悪?なのであろうか)、「新スコラ学」内部の多様性についてはどう考えるべきだろうか。マリタン、ジルソン、メスナーといった「トミスト」の哲学者や倫理学者も十把ひとからげに「新スコラ学」という《過去の遺物》に含めるという訳ではなさそうだが、どうも、第二バチカン公会議関係の論述には、旧世代をひとくくりにしたり、今では50年前になる公会議での《解放》体験で立ち止まってしまう傾向があるようにも、私の世代には感じられる(ただし本書は公会議後の流れもある程度述べている)。

  いずれにせよ、これらの著者について、また「新スコラ学」についてもまだ研究途上にあるゆえ、これ以上コメントは差し控えたいし、簡潔な見取り図を与えてくれる本書には感謝したい。

2013年2月21日木曜日

フランク・リースナー(清野智明監修・生田幸子訳)『私は東ドイツに生まれた 壁の向こうの日常生活』東洋書店、2012年

 旧東ドイツ(DDR)出身で、NHKテレビのドイツ語講座出演でも知られるらしい著者により、わかりやすく旧東ドイツの社会・文化・経済についての紹介がなされている。全体におもしろいが、訳文もきわめて明快で読みやすい。

 訳者も述べているように、現在の雇用不安の蔓延した日本社会にあると、雇用と教育の機会が保障され、社会保障の充実した旧東ドイツは「うらやましい」社会であるようにも本書からは読める。

 旧東ドイツでもキリスト教は国家の監視を受けつつも、それなりに存在していた様が伺われる。「初聖体」についての記述が興味深い。

 しかし一番目を引いたのは、次のくだりである。

 「東ドイツに売春宿はなかった。そんなものが存在していたら、女性に対する侮辱にあたっただろう。全ての女性が仕事を見つけられるような社会だったのだ。国家は工場の中に女性を必要としていた。生計のためにわが身を売る必要などはなかったのだ。東ドイツにおいて売春行為は、資本主義社会特有の現象であるとみなされていた。春をひさがねばならぬほど女性を追い詰める社会というわけである。一方、我らが社会主義国家では、各々が性別に関わらず能力を伸ばしてゆける。そんな対比が必ず付け加えられた。」(229頁)。

 思わず考えさせられてしまう。旧東ドイツには特殊な人々を対象とする「ハニートラップ」として売春的行為はあったが、一般的な売春営業はなかったという。

 本書を読む限り、旧東ドイツでは若年者が結婚・育児をしやすい社会保障制度が現在の日本などよりも充実していたようである。子ども時代から大人に至るまで、さまざまのコミュニティ的活動が組織されていたこともあり、旧東ドイツでは性に関して売春という仕方に結実するようなひずみは少なかったように本書では読める(同時にFKK=裸体文化や同性愛の問題も本書では触れられている)。

2013年1月13日日曜日

ハンス・ヨナス(加藤尚武監訳)『責任という原理』東信堂、2000年

 かつて十数年前、Suhrkamp社から出ているドイツ語版で読書していたが、ヨナスのドイツ語の晦渋さは私の独語力ではすらすら理解できるレベルでもなく、その後打擲していたが、平明な日本語訳が2000年に出たものの、不思議と長らく読まずに来てしまった。今回読了して、この本が全体としてエルンスト・ブロッホの、科学技術の力によるマルクス主義的ユートピア論への批判でもあるらしいと理解した。

 「ベーコン以降、プロメテウスの流れを汲む多幸症の幾世紀期が過ぎた。マルクス主義も、その多幸症を源としている。今日では、責任の倫理が、駆け足で走る〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけなければならない。そうしないと、遠からず自然が、驚くほどもっと強烈な自然流のやり方で、〔科学技術を〕制御することだろう。その限り、〔科学技術の〕未来への前進に手綱をつけることは、賢明な用心であるのみならず、我々の子孫への最低限の礼儀である。」(205頁。一部訳語・訳文を変更)

 そしてここでいう「責任の倫理」とは、人間種というものの存在のために必要な「自らの前提条件を維持する責任」(204頁)なのである。

 たしかに福島原発事故に鑑みても、ヨナスの予言的警告の正しさは肯うことができよう。しかし、人間の科学技術の利用に摂理的に反発するはずの「自然」自体を、今日、科学技術の力により改変しようとしていることも確かであろう。「自然」は、それ自体で、人間の技術的介入に抗うだけの力を常に失わないものなのであろうか。

 人間という自然の改変は、今日、生命技術において生じているし、それがもはや「グロテスク」であるという感受性を人間から失わせつつある。ヨナスはこの本の結論部分で人間の「似姿」性を保持すべきことを主張しているようだが(388頁)、それは結局、人間の「本性」についての規定を最終的には神学的次元に求めざるを得ないということではなかろうか。

2013年1月5日土曜日

尹載善『韓国の軍隊 徴兵制は社会に何をもたらしているか』中公新書、2004年

 いろいろの意味で多くを考えさえられた一冊である。まず、日本と韓国の第二次大戦後の歩みの違い。韓国の軍事独裁政権や徴兵制に伴う軍事文化を無視しては韓国の現代史を理解できないのであろう。しかし私が特に興味を持ったのは、韓国軍内での宗教活動についての論述である。

「日曜日の午前、すべての兵士に宗教活動の時間が与えられる。よりよい軍隊生活のために、一人一宗教を持つことになっている。大部分の兵士は、日曜日の午前には宗教活動に参加する。つらくて疲れる軍隊生活のなかで、より安定した生活ができるよう支えるのが宗教活動である。宗教はもちろん自由で、プロテスタント、カトリック、仏教等、自分の望む宗教活動ができるようになっている。」(177頁、下線は引用者による)とある。

私は実は大学院時代、著者(尹先生)と同じ研究室に属していたが、ここまで詳しく韓国軍や著者の事情について伺いそびれていた。神学校も卒業し、今は牧師としても活躍される著者によると、韓国で今や国民の3割以上がキリスト信者になっている背景には、韓国の徴兵制に伴う「軍事文化」への人々の嫌悪があると伺った。

鈴木崇臣『韓国はなぜキリスト教国になったか』春秋社、2012年

 聖隷クリストファー大学教授・牧師である著書による。韓国はいまや総人口の37.5%がキリスト教徒であるという。その理由を本書は探っている。全体として、韓国のキリスト教会の現状についての論述は非常に興味深い。本書から知る限り、夜明け前の「早天祈祷会」への参加など、韓国のキリスト信者が個人としても集団としても非常によく祈る人たちであるという点に、韓国でのキリスト教浸透の理由の根本がありそうに感じられた。

 私は大学院時代、現在は大学教授に加えて牧師もお勤めになっている元韓国軍将校であった韓国人留学生の方に伺ったことがあるが(次の記事参照)、徴兵制のある韓国内の「軍事文化」への嫌悪がキリスト教普及の一つの理由になってもいるそうである。

2012年10月13日土曜日

東浩紀『情報環境論集』講談社、2007年より「情報自由論2002-2003」

 私は情報技術に関して疎いので、この東氏の議論の情報技術に関する論述をいかに評価すべきか判断できない。その上で、私の扱える範囲で東氏の議論の主な点を挙げると次のようになろうか。
 ①「ポストモダン」社会において社会統合を行う共通の規範(これを東氏は「大きな物語」と呼ぶ)が失われ、そうした規範に向けて個人を規律する「規律権力」の役割は廃れたが、その代り個人の多様な価値観(「小さな物語」)は尊重しつつも、社会的に望ましい方向に個人を無意識的にも向かわせる「アーキテクチャ」(環境管理)を用いた「環境管理型権力」は増大していること。
 ②そうした社会においては個人の主観的自由は増大すると同時に、環境管理の技術による管理社会化が進み、結果として個人は自身の理性を働かせて思考し、自律的に自らを規律する能力は薄れ「動物化」し、そうした「動物化」した個人は本人が意識せずとも環境管理された社会の内に社会の側からの作用により統合されること。
 ③そうした社会においては「動物化」した個人の「不安のインフレスパイラル」が生じ、ゲイテッド・コミュニティに象徴されるように、かえって多様な他者が社会的に排除されること(それゆえ「価値観の多様性」は単に主観的なものにとどまるか、あるいは管理されつつ許容された範囲で社会的に実現されるかであろう)。
 これらは確かに多くの優れた洞察を含んでいるように思われる。マッキンタイアのいう「官僚制的個人主義」社会の議論にも重なるが、「ポストモダン」社会では個人の主観的自由・全能感の増大にも関わらず、客観的には個人はますます社会の追求する自己目的的な「成長」のために環境管理を通じて本人は意識せずとも奴隷化していることは確かであろう(このことは街に出て自転車などを運転しながらスマホの画面に見入っている若者たちの姿を見れば明らかであろう―この場合、環境管理がうまくいっていないとも言えるのだが)。また「不安のインフレスパイラル」の背後には、安楽な自己愛世界を守りたいという現代人の自我の在り方が伏在し、これが学校での規律権力の象徴ともいえる体罰への社会的バッシングにつながっているのではなかろうか。
 ただし東氏の議論で違和感を私が感じた点は、議論があまりに情報技術と環境管理を中心に考察されていることを措くとすれば、①「大きな物語」(リオタールは『ポストモダンの条件』でこの言葉をはっきり定義していないように思われるが、かつてのユダヤ・キリスト教信仰の残響があるのは確かだろう)の喪失という事態は確かに個人の自己愛世界という断片的な「小さな物語」の併存という状況をもたらしているように思われるが、しかし、意識的な「物語」の次元の下部に「本性適合的認識」ともいうべき倫理的原則への共通の直覚が存在するのではないかということ、そうした直覚の能力なしに環境管理のみで社会統合がなしうるのか疑問であること、②東氏の議論自体においては環境管理による社会統合が「何のための」社会統合であるのかはっきり述べられていないこと(拙論では自己目的的な「成長」のためであるが)、などがあろうか。
 ところで東氏の議論で最も共感した点は、「ポストモダン」社会における人間の「動物化」への傾向に関する指摘である(東氏のいう「動物化」とは「他者の欲望を欲望することという人間性が失われること」らしいが、その点については措くこととする)。人間がいかに生きるべきかに関する公共性を帯びた規範的な像(あるいは徳目)なしに、人間は人間たりうるのだろうか。そうした規範的な像、徳目はもちろん、人間とは何であり、何でありうるのかという「人間本性」に関する知見なしには成立しえない。アリストテレス的な政治共同体の内での「善き生」ということを超えて、人間の超自然的な「存在可能性」(W.Kluxen)を視野に入れる場合、キリスト教の「神化」(テオーシス)をめぐる議論は今日的意味を帯びているように思う。

2012年9月25日火曜日

マイケル・サンデル(鬼沢忍訳)『公共哲学 政治における道徳を考える』ちくま学芸文庫、2011年


Michael Sandel “Public Philosophy”,2005.の邦訳。第1部および第2部は、若き日にジャーナリストとして出発したというサンデルのジャーナリストとしての才覚があらわれた論述であろう(もともと初出は”The New Repubilic””The New York Times”に掲載されたものである)。この人の書いたものは論述が明晰であっても、常に自分の立ち位置については消極的にしか呈示しない傾向があるように思う。

 ところで、この著作で最も読みごたえがあるのは第3部でのロールズの「政治的リベラリズム」への鋭い批判ではなかろうか。ロールズの「政治的リベラリズム」は「包括的リベラリズム」すなわち倫理的相対主義に基づく斉一的世界観としてのリベラリズムを否定しながらも、多元的な倫理的・宗教的・文化的な信念の間での相互寛容を説くものであったという。しかしサンデルによると「政治的リベラリズム」は結局、世界観としての「包括的リベラリズム」を国家全体に押し付けざるを得ないのであり、「寛容」「相互尊重」という価値が他のあらゆる価値に優位しなければならないという前提に立つと論じる(同書332頁)。さらに結局は寛容という政治的価値を国家の公的領域に、その他の倫理的・宗教的・文化的価値を私的領域に振り分けることはできないと説く。

 そして法・政治と道徳・宗教・文化を分離しようとする政治的リベラリズムが不可能な以上、公共的な法・政治の領域が前提とすべき、公共的な道徳・宗教・文化について社会のざまざまのグループの公共的討論を通じての合意の可能性を探るべき、こうサンデルは説いていると言えるのではないか。

 ただし、本書では多文化的な国家において、そうした公共的な合意がいかに可能かの説明はないように思う。またサンデルが自身の道徳的見解として、人工妊娠中絶と子供を殺すことの間に道徳的線引きができるかのような発言も見られるが(335頁)、そうしたサンデルの見解が果たして公共的な見解として(法制度の問題としてならともかく少なくも倫理的信念の問題としては)どれほどの普遍的同意を得られるか疑問ではないか。正義原理についてすら普遍的同意が成立しえないことをロールズへの批判の中で指摘している以上(346頁)、まして道徳的見解については公共的議論の必要を主張するだけでは不十分であり、いかなる道徳的内容を立法に反映させるか、立法段階で最終決定せざるを得ず、その点についてサンデルがどう考えているのか、この本では不分明であるように思う。

 結局、「法と道徳」の分離、「善に対する正の優位」を説くリベラリズムに対する批判としてはサンデルの主張は肯定できるが、サンデル自身の控え目ながら暗示されている道徳的見解には筆者は組しえないし、全体に不満を感じる。しかし正義を人間の本性とその目的(善)の側から定義しようとしているらしい点自体は同意できよう(376頁)。

2012年8月30日木曜日

C.S.ルイス(鈴木訳)『キリスト教の世界』大明堂、1983年

 『ナルニア国物語』で知られるC.S.ルイスのラジオ講演を書籍化したもの(原題"Mere Christianity",1960)。人間の罪の問題から説き起こして、贖罪論、キリスト教倫理、神論(三位一体論)、救済論へと進み、最終的にキリスト教の本質を各人の「神化(キリスト化)」にあるものと説いている。
 同著者の『悪魔の手紙』も感銘を受けたが、本書はキリスト教入門書として抜群にすばらしいものであると思う。キリスト教の本質を、著者ならではのわかりやすい比喩を用いて極めて平明に説いている。未信者の方よりもむしろキリスト教信者がキリスト教をいわば「復習」するための講演であるかもしれないが、未信者の方にもわかりやすいものではないかと思う。

R.N.ベラーほか(中村訳)『善い社会 道徳的エコロジーの制度論』みすず書房、2000年

善い社会―道徳的エコロジーの制度論
 同じ著者らによる『心の習慣』の続編に位置づけられている著作。
 全体として、自由主義的個人主義を批判する共同体主義の立場から、個人と社会とをつなぐ「制度」の意義を説いている。副題の「道徳的エコロジー」は本書中「社会的エコロジー」とも呼ばれているが、個人を取り巻く社会・文化的環境のことで、ヨハネ・パウロ2世の『百周年回勅』(1991年)では「ヒューマン・エコロジー」と呼ばれていたものである。本書も、『百周年回勅』にも沿った方向で(このことは著者らがアメリカ司教団の"Economic Justice for All"を高く評価していることからも伺われる)、J.ロックに由来する社会哲学としての自由主義的個人主義と経済哲学としての「新自由主義」が、アメリカと世界の「道徳的(社会的)エコロジー」に破壊的影響をもたらした事を指弾している。また自然環境問題とそうした「道徳的エコロジー」の問題の関連も示唆されている。
 著者らはロック的な個人の自由と利益の最大化を目指す社会・経済哲学に代わり、地球規模での普遍的共同体、また逆にローカルな地域的共同体の共同善を志向する個人を育てるアメリカの聖書的伝統および共和主義的伝統を再興することを自由主義的個人主義のもたらした問題の解決策として提示している。
 著者らの解決案への疑義として、共和主義はともかく、聖書的伝統を地球規模でいかに普遍化しうるかというものが当然予想されるであろう。私見では著者らの議論には、共和主義という政治的エートスとキリスト教という宗教的エートスの間に来ると思われる、普遍的な倫理的エートスの次元の議論が希薄であるようにも感じられる。
 しかし全体としては、自由主義的個人主義のもたらした問題点を見据え、共同善へのまなざしを開く「社会倫理学」の必要性を鮮やかに示した著作と言えるだろう。また終章で論じている「注意」をめぐる議論がユニークである。ただし、共同善に向けての実践を「注意」という心理学的概念で語らざるを得なかった点が、この著作において本来の倫理的なものへのまなざしが希薄であることの表れでもあるかもしれない。「注意」ではなく、実践理性の「賢慮」を語るべきではなかったのか…。
 また個人主義を超えて制度の意義を説くという点はすでにかつてジョルジュ・ルナールなどが説いていたことであった(ルナール(小林訳)『制度の哲学』栗田書店、1941)。
 
 

2012年8月28日火曜日

篠澤 和久/ 馬渕 浩二編『倫理学の地図』ナカニシヤ出版、2010年

現代日本の中堅倫理学研究者の方々による大学学部生むけの倫理学の教科書。功利主義・義務論・徳倫理学という現代の英語圏の倫理学を中心にみられる規範倫理学の三分法を基本に、ニーチェやベルクソンなど「生の哲学」や日本倫理思想にもページがさかれている。分かりやすい事例から説き起こされ、平明な文章で書かれている。論述は全体に穏当であるように思われる。参考文献も挙げてあり親切。翻訳ものにはない分かりやすさがあり、教科書・参考書として優れた本であるように思う。
 ただし、本書を読んでも伺うことが出来るが、現代の英米を中心とする倫理学は行為の究極目的を問わず、個々の行為の善さを問題するにとどまり、いわば「善い行為」を問いえても、「善き生」は問いえていないように思われる。それは実は同時に死の意義をいかに問うかという問題とも連関するが、この点に関しては倫理学ではなく、むしろ「死生学」にその役割が割り振られているようにも思われる。

2012年8月21日火曜日

岩本潤一訳注『現代カトリシズムの公共性』知泉書館、2012年

 日本のカトリック教会の中心部とも言えるカトリック中央協議会司教協議会秘書室に勤務する著者による翻訳と著作。タイトルから伺われるように、ローマ(ヴァチカン)を中心としたカトリック教会の現代世界の諸問題に対するオーソドックスな見解を翻訳解説している。
 第1章から3章はいわゆる生命倫理に関する諸問題を扱う。人格的生命の始期、ES細胞研究のはらむ倫理的問題、「植物状態」における胃瘻による栄養補給の問題などが取り上げられる。特に「植物状態」は終末期ではないという見解は、「尊厳死」問題と「植物状態」とがしばしば結び付けられるだけに注目されよう。
 第4章はヨーロッパなどで法制化の進む同性婚の問題と、同性愛傾向の人の叙階の問題が論じられている。
 第5章はニューエイジ運動の問題が取り上げられ、同運動が倫理的相対主義と政治的無関心を通じての全体主義化につながる危険性が指摘されている。
 第6章の裁判員制度に関しては、政教分離の点から聖職者の同制度への参加が否定される半面、一般信徒にはむしろ共同善への寄与の面で参加が薦められている。
 第7章では、カトリックの伝統的な正当戦争の理論が取り上げられるが、シリア情勢でも問題になっている「保護する責任」論への言及が重要な論点であろう。
 第8と第9章は、ヨハネ・パウロ2世教皇と、ベネディクト16世教皇の事績のまとめである。ヨハネ・パウロ2世教皇の意図したことは、回勅や書簡、談話等を通じての第2バチカン公会議の決定の「正しい解釈」の普及にあったこと、また教理省長官として前教皇に仕えたベネディクト16世教皇もその路線を受け継いでいることが述べられている。
 全体として、第2バチカン公会議以降のカトリック教会が現代世界の内で本来目指しているところを、著者独自の主張も交えながら、いくつかの現代的論点において描いており、大変興味深い。
 

2012年5月5日土曜日

ヴィリー・マルクセン「史的および神学的問題としてのイエスの復活」(村上伸訳『イエスの復活の意味』新教出版社、1974年所収)

マルクセンはブルトマン学派の神学者。史的な意味でのイエスの復活は否定するが、初代教会の「ケリュグマ(宣教)」のなかへのイエスの復活は肯定する、という趣旨らしい。しかし、論文の末尾で著者が「私が今日、―説教のなかで―この宣教(ケリュグマ)によって動かされるとするならば、…中略…その時に私にとって、終末的なものの先取りが起こるのである」とするとき、史実としての真偽が問えない「復活」の「宣教」は、ちょうどメタ倫理学上の「情動主義」における、倫理的言明の意義(「非認知説」として倫理的言明は真偽という性格をもたないが他者の情動にのみ作用しうるという)に似通った性格を持っているようにも思われる…。

2012年4月18日水曜日

雨宮慧『聖書はなぜ奇跡物語を語るのか』教友社、2011年

 現代日本のカトリックの代表的な旧約学者雨宮慧師の講演を出版したもの。新約の「自然奇跡」「癒しの奇跡」「悪霊追放の奇跡」について、聖書という書物の性格から説明しつつ解き明かしている。新約の奇跡物語に影響を与えた旧約テクストを参照しつつ、聖書箇所を釈義している。いつもながら非常に鋭い聖書の読みを示しておられる。ほかに、「サタン」概念が旧約に登場したのは紀元前4,5世紀であるという論述が特に興味深かった。

2012年4月15日日曜日

コンラート・ローレンツ(谷口訳)『人間性の解体〔第2版〕』思索社、1999年。

著名な動物行動学者の晩年の著作。筆者の不案内な分野である。 
 現代の技術主義文明への文明批評としては格別目覚ましものはないように思うし、正直なところどころ哲学的なナイーブさも感じられるようにも思う。現代文明批評に関してはやはりマックス・ピカートのものが最も先鋭であるように思う。
 印象に残った議論として「テレオノミー」の議論がある。偶然的な進化の結果、種にあたかも目的論的な合理性を持ったかのごとき特性が生じることを意味するらしい。
 子供の生命への畏敬の感覚を養うために実物教育の意義を説いたりするなど、実践的に目指していることは全体に穏当であるように思う。